読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

ちょっとした違和感ー推薦できない水仙の道

 季節の移ろいは早いもので、ここ瀬戸内では葉桜を楽しむ季節となった。対岸の宮島の森のあちこちにサクラやザイフリボクの花のぼんぼりが見えていたのが、今日は既に花も散り、すっかり萌葱色となった樹林に溶け込んでしまっている。
 すっかり春めいているのだが、同じ廿日市市でも細見谷のある西中国山地(車で1時間ほど)ではまだまだ春の足音はかすかなものである。例年4月下旬の雪解けをまって細見田調査行が始まるのだが、最近は、暖冬の影響で4月に入ると入山可能となることも珍しくない。ということで、春めいてきた16日に細見谷渓畔林ヘ出かけてみたのだが、案に相違して、残雪が林道をふさいでおり、車での入山を諦めるしかなかった。
 そこでもう一つの目的地へ向かうことにした。そこは、細見谷川の支流でツキノワグマの採食行動(主に魚食)を検証するためのフィールドとして利用しているところである。
 ここは駐車場所からも近いので多少の雪は障害とはならない。残雪があるとはいえ、日向は気温も高く初夏を思わせるのだが、残雪をなめて時折吹いてくる冷たい空気が早春の気配を感じさせてくれる。なんとも気持ちが良い調査日よりであった。

f:id:syara9sai:20170418143213j:plain

f:id:syara9sai:20170418143323j:plain

 この時期はブナもまだ芽吹いておらず、明るい谷底を流れる細流がきらきらと輝き、時折ニホンヒキガエルの卵塊が姿を見せるゴギもなんとなく春を感じさせる。沢の水たまりには水をすって膨らんだ寒天状のニホンヒキガエルの卵塊がみえる。
 生物の息吹をかんじる光景であるが、生があれば死もまた見える。沢のほとりの草むらに、ひからびかけたヒキガエルの遺骸を見つけた。まだ水を吸収していない細い紐状の卵塊が斜面に伸びている。何が起こったのであろうか。産卵するような水たまりがあるわけではなく、産卵場所へ向かう途中で捕食者に出会ったのであろうか。身体には目立った傷もなく、行き倒れのような感じでひからびかけている。「生者必滅会者定離 頓証菩提南無阿弥陀仏」 と心で唱え、回向してその場をはなれた。

f:id:syara9sai:20170418143248j:plain

 ここでは自動撮影用のVTRカメラを設置してクマをはじめ様々な動物たちの行動を記録しているのだが、今回の目的はクマの新生個体の状況を把握できればと思い、例年より早く設置するための入山である。カメラは一応防水仕様となっているが、決して完全ではない。長雨や大雨などによる誤作動は避けられない。できれば雨が降らなければ良いのだが、あいにく設置翌実の17日は大雨警報が出るような悪天候にみまわれ、このブログを物しながらいささか心配になってきている。次回の入山時まで無事に働いてくれていれば良いのだがと今は祈ることしかできないのである。
 西中国山地ではようやく春らしくなってきたのだが、今年は春を告げるタムシバが不作もしくは凶作で、昨年の様な斜面一様に白い花が咲き乱れるといった風情はなく、ぽつぽつと斜面に目につく白い花で、あっ、タムシバもあったんだなという程度のさみしい春の風景である。

f:id:syara9sai:20170418143338j:plain

 調査行としては報告すべきことはまだないので、別の話をしてみようと思う。
 調査地の入り口までは車で1時間ちょっとなのだが、車からみえる景色は沿岸部、佐伯地区、吉和地区と高度が上がるにしたがってかなり大きな変化がある。九州から東北南部までの景観を圧縮したような変化である。自然植生の変化はそれなりに楽しめるルートなのだが、一つだけどうにも違和感がぬぐえない場所がある。
 国道186号線を小瀬川沿いに走り、羅漢渓谷、飯室集落を過ぎて峠を越えると旧吉和村地域に入る。吉和に入ったとたん、道の両側に黄色いスイセンの花が出現する。「水仙の道」という看板があり、地域の人たちが町おこしのために苦労して植栽したものである。その努力たるや尊敬に値するものである。地域発展のために企画したものに違いない。それに対して多くの観光客は素晴らしいと感嘆の声をあげるに違いない。

f:id:syara9sai:20170418143357j:plain

 こうした活動は各地で行われている。あるところではアジサイが、またあるところではシバザクラヤコスモスといったように。しかし私はどうしてもこの手の企画に違和感を覚えざるを得ないのである。花ばかりではない、モミジやサクラといった樹木の植栽にしてもどうも違和感をもってしまうことがある。かといって並木などの植栽がすべてダメというわけでもない。うまくいえないのだが、沖縄のフクギ並木や関東のケヤキ並木などは受け入れられるのだが、多くの場合違和感がまさってしまう。違和感の一つの要素に「在来」というものが関係しているのかも知れない。
 たとえば水仙という植物の自生地は海岸周辺に多く、そんな自生地での群生は違和感は生じない。吉和地域の林縁部には多様な在来種があり、季節ごとに特徴ある花を咲かせるにちがいない。それをすべて排除してスイセンを植栽してスイセン街道にしてしまうことは在来種の否定であり、多様性の否定でもある。落葉林の林縁にも田んぼのあぜ道にもスイセンを植え、黄色一色に染め上げてしまうセンスは私には受け入れがたい。
 生態学という生きものの暮らしを解明することを目指す学問に関わる身にとってこうした違和感をもつことはある意味当然なのだが、多くの人が「いいね」と言っている事象に意義を唱えるのは決して居心地のいいものではない。
 さてもさてもどうしたら良いのだろうか、戸惑うばかりの今日この頃である。