生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

クマにあったらどうする?マニュアルを信用するな!

 この秋はクマの話題に事欠かない。今年は特に都市部へのクマの出没と人身事故の多発しているという。私のところへも時折新聞者やテレビ局から取材がある。多くはその原因についての見解を求める内容なのだが、必ず、「クマと出会ったらどうしたら良いのでしょうか」という質問が必ずついてくる。

 そのたびに、私はこう答えている。「ケースバイケースですから、定型型のマニュアルはありません。もし仮にクマと出会って冷静に対処できる能力のある人であれば、アドバイスは不要で、そうでない人(たいていの人)は、緊張や恐怖のあまりマニュアルなど思い出すまもなくパニックに陥ります」というと、当然ながらそのコメントはまずカットされてしまうのが落ちである。

 今日、2019年11月12日付けの中国新聞くらし欄にも「クマにご用心、山中での心得」という記事を見つけた。その内容はいつもの通り、・遭遇を回避 鈴やラジオで音出す ・出合ったら 目を離さず後ずさり というもの。

 これらの対応は間違いというわけではないが、だからといってけっして正解でもない。なぜならクマは生きものだからその場その場の状況によって心的状況におおきな違いがあり、その結果としての行動も千差万別となるのは至極当たり前のことなのだ。ましてや哺乳類ともなれば、場の状況を読み、それに対応した対処をするものである。画一的な行動パタンがあると見るのは極めて非科学的で有り、危険でもある。

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 出会いの状況次第

 たとえば、春の山菜採りや秋の茸狩などの場合、たいていの場合多くの人は捜し物に熱中し、周囲の動静に無頓着な状態にある。クマも同様であれば、こうした場合の人とクマの遭遇は至近距離でいきなりというケースが多い。であれば、人もクマも冷静であるはずもなく、お互いびっくりしてとりあえず目の前の危険を除去しようとする。当然、力が強く頑丈なクマにど突かれて大けがを負うということになる。

 あるいは渓流釣りに来ていて、たまたま生まれて間もないクマの子が釣り人に興味を抱いて接近してきたとしよう。それに気づいたクマの母親は、コドモを守ろうと必死になって釣り人を排除しにかかる。これも大けがの元となる出会いである。

 一方、私たちのようにクマを求めて穏やかに山を歩いていると、思いがけずクマに出会うことがある。こうした場合、出会い頭ということはほとんどなく、先にクマが私たちの存在に気づき、こっそりとその場を去るということになる。あるいは、採食現場に出くわせば、私たちも無理な接近をせずに一定の距離を置いて観察を試みるので、クマも比較的落ち着いて、それまで通りの行動を続けるということも少なくない。

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 逆に有害鳥獣駆除などでは、多くのハンターがクマを取り囲むように接近するなど緊張した場の状況での出会いとなる。こうなれば互いに命をかけた出会いの状況であるから当然、人もクマも攻撃的とならざるを得ない。私たちのハンターの方との出会いにおけるクマ観の違いはそこにある。

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 もう一つは、パニックに陥ったクマとの遭遇である。最近の事故はこのケースである。クマが住宅地へ入り込んでくるのは多くの場合、餌を求めてのことである。こうしたケースは近年顕著になってきた。住宅地近辺に暮らしているクマであっても、実際に市街地へ入り込んでくると、右も左もわからぬ未知の土地である。当然、緊張している。そこで人間と出会ってしまうと、さて、どう対処して良いものかわからぬうちに騒動となりさらにパニック状態となる。見る人見る人が恐ろしく、敵前逃亡すべくど突き倒して逃げる。その連鎖がおおきな事故となる。冷静に事態を評価すればそうなる。

 そしてクマが市街地へやってくるにはそれなりの理由(背景)があるのだ。

 クマの生活環境の変化

 今のクマはもはやかつてのクマではない。クマを見るなら奥山へというのが多くの人の見立てなのではないだろうか。かつてはその通りだったのですが、現代ではそうではありません。クマを見たければ過疎の村へというのが偽らざる事実なのです。

 広島県では西中国山地にクマの中核的生息地があるとされています。私たちがフィールドにしている細見谷渓畔林流域はそうした中核的生息地でした。でしたと過去形で記述するのにはわけがあって、どうも最近では中核的生息地とは言えないのかも知れないという疑念が生じてきたからです。

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 この図を見てください。西中国山地のクマの生息域の変化を示したものです。最初の生息域調査は1979年のもの。このときは西中国山地にほぼ限られていました。有害鳥獣駆除の統計記録では、1975年ころからぽちぽちと集落に出没するクマが認められるようになり、それ以降は年ごとに駆除個体数が増加してきています(HFMエコロジーニュース111 参照)。

 2019年現在では、東広島市三原市尾道市府中市神石郡あたりまで広がっていると思いますが、その広がりの中に一様にクマが生息しているわけではありません。クマの生息数の推定値は中核的生息地の生息密度をある係数を生息面積に掛けて算出しているので、面積が多くなればそれに比例して推定値は大きくなり、過大に見積もる傾向があります。基本的に個体数推定の手法は確立されていないので、生息数の中央値を過大評価してはいけません。せいぜい一定の傾向をみることしか出来ないのが現状なのです。

 詳しいことは省きますが、1970年までの大面積皆伐、拡大造林策によって、国有林、民有林の広葉樹林の多くがスギ・ヒノキの人工林へと置き換えられてしまいました。同時に河川本流には利水を目的とした大きなダムが、支流の小河川には隅々まで砂防ダムが設置され、河川生態系は壊滅的な破壊を受けました。特にサケ科のゴギやアマゴは激減し放流しなければ姿さえ見られないような状況となっています。それまでは、秋の産卵期になると源流部の河川一体にはゴギやアマゴで水面が盛り上がるほどだったといいます。話半分としてもかなりの渓流魚やサンショウウオなどが生息していたことは間違いありません。クマは毎年産卵にやってくる渓流魚をいとも簡単に捕まえ、越冬前の栄養源としていたこことは想像に難くありません。

 こうした安定した水産資源が枯渇すると、クマたちはサルナシやウラジロノキなどの液果やブナ科のドングリ類に頼らざるを得ません。植物質の果実は毎年同じように実をつけるわけでもなく、豊凶の繰り返しです。しかも、動物質と比べ栄養価に乏しいとなれば、当然、クマの行動域は拡大し、生息域も拡大せざるを得ません。

 折しも中山間地域では、若い人たちを中心に都会へと移り住む人が増え、過疎化が進行します。と同時に里山と呼ばれる農業生産のための資源林はその役割を終え、放置されることになります。農業用の肥料に炊事等のエネルギー源に道具や住宅の資源として利用され尽くしていた生産物は不要なものとなりました。となればその生産物は野生動物が利用するというのは理の必然です。過疎の二次林は野生動物の生活の場へと変わったのです。

 そんな変化が顕在化してきたのが1990年代です。広島県の旧戸河内町では、この頃からクマの出没に頭を悩ませられてきました。盛んにクマフォーラムなる集会が開かれるようになったのです。

 そのころから既にクマは過疎地周辺の二次林をよりどころとしてくらし始めたのです。生息域の変動を見るとその拡大していく状況がよくわかります。

 こうして奥山から二次林(里山)へ生活の場をシフトさせてきた個体群はそこで再生産を繰り返していくうちにそこが彼らの故郷となっていきます。そして過疎化の進行と打ち捨てられた果樹園、廃田や休耕田の森林化とともにさらにクマの生息域は拡大を続けます。

 こうしてクマたちは市街地にほど近い二次林で暮らす内に、人との接触を深め、人のいることに慣れっこになります。町の景観も車の存在も、騒音もそして食糧も人間の廃棄物などを取り込んでいくようになり半都市生活者的なクマとなっています。

 一方、奥山では近年野鳥の声も聞こえぬ沈黙の森と化しています。森にも川にも生物の姿は薄く、とうていクマが豊に暮らせる場ではなくなっています。クマの食痕も爪痕もフンもほとんど見つからないのが現状です。

 広島・島根・山口三県共同の保護計画には、クマの中核的生息地の生息密度が回復するような森作りを促すことが盛り込まれていますが、残念なことに予算措置はなされていません。一日も早く、豊かな森林を回復し、クマが安定して暮らせる場を取り返すことが何よりも重要ではないでしょうか。それは私たちの将来の安全保障問題でもあります。

 

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