生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

やんばるの森事情 1 やんばるの森散策

 前回は森林伐採の現場を紹介したが、こうした森林伐採がやんばるの生物多様性にいかなる影響を与えるかということを考えてみたい。だがその前に、そもそもやんばるは本来の森林って?、そこはどんな世界なのか、どのような生きものが暮らしているのか、といった素朴な疑問に答えておくことにしよう。

 下の写真は大国林道・長尾橋から眺めたやんばるの森である。よくポスターなどで見るやんばるの森はたいていここからの眺めたものである。もこもことしたブロッコリーのような森。このもこもこした樹木はイタジイ(スダジイ)で、このイタジイが優占する森、それこそやんばるの森の基本的景観である。写真は5月、いわゆる「うりずん」に撮影したもので、白い花はイジュ(ツバキ科)である。写真を見る限り、やんばるはこうした立派な森が延々と続いているかのように思えてくる。

f:id:syara9sai:20190318143603j:plain

大国林道・長尾橋から見たやんばるの森

 しかし遠目には立派な森林に見える森でも、実際に足を踏み入れてみると意外に細い樹ばかりでがっかりすることも少なくない。というか、今のやんばるにはそんな森のほうが圧倒的に多いのだ。

 では本当に豊かなやんばるの森とはどんなものなのだろうか。その一部を画像で紹介してみよう。写真アルバムやんばるの自然 をご覧ください。

 

 やんばるの森散策

 やんばるとは山原の意味で、その地形は本土の山岳帯とは異なり、大きな山体を有するものではない。名前の通り、丘陵といった方がわかりやすい。千葉の房総半島内陸部や下北半島の地形に近く、平らな地面が東西南北から押されて地面にしわが寄った様な地形に特徴がある。せいぜい2-300mの山が複雑に連なり、小さな川が網の目のように流れている。森を眺めての印象は一見なだらかで歩きやすい森に見えるが、実際はかなり歩きにくい。それは樹木が地形の厳しさを覆い隠しているからに他ならない(下の写真参照)。

f:id:syara9sai:20190319145933j:plain

 伐開地に立って森の断面を見るとわかるように、谷に近い樹木は樹高も高く太い。それに比して尾根部では季節風も強く、乾燥しやすいために樹木の生育は遅れ、樹高もかなり低い。また地形は沢筋の土壌は浸食されて岩盤が露出し、川沿いは数メートルの高さの崖となっていることが多い。つまりお椀を伏せたような地形の集合体と思えばわかるだろうか。その結果、樹木に覆われたやんばるの山並みはなだらかに見えるが、実際に森を歩くのは、粘土質の赤土の斜面と相まって容易ではない。またこの赤土の土壌はかなり酸性が強く農業には適さない。

 薄暗い森

 やんばるに残る古い森に足を踏み入れてみるてまず感じるのは、暗いということかも知れない。その暗さにはすぐに馴れて気にはならないのだが、写真撮影をするとなるとこの暗さに苦労することがある。動きのある鳥やパンフォーカスで景観をカメラに収めようとすると、どうしてもスローシャッターを切らねばならなくなり、息切れした身体では手持ち撮影で苦労する。

f:id:syara9sai:20190325154457j:plain

 写真はそれほどでもないのだが、巨樹に覆われた森では樹冠が完全にふさがれて林床はかなり暗い。そのため林床に生育する植物は意外なほど少なく、すかすかである。熱帯、亜熱帯の森は、いわゆるジャングルのような樹が密性して歩きにくいと思うかもしれないがそれは誤解である。

f:id:syara9sai:20190325150810j:plain

 森林内部は暗いだけではない。沢沿いの森は湿度が高くしっとりとしている。ところが尾根部は冬の強い北西風のためやや乾燥がきつい。そんなこともあってわずかな高低差ではあっても、生育している樹種は斜面の上部と下部(沢沿い)とでは異なっている。たとえば高温多湿の谷筋から中腹まではイタジイやオキナワウラジロガシの巨木が生育しているが、尾根部周辺は乾燥に強いアデクリュウキュウチクの群落となっているだどわずかな標高差でも大きく植生が異なる。

 生物にとって湿度(水分)は生死を分けるかなり重要な要素である。極端な言い方をすれば、水問題を解決することも生物の進化に大きな影響を与えてきたのである。逆説的な言い方をすれば、水を求めて水と縁を切るように大進化が生じたと言えるのかも知れない。身体の内部に豊かな水環境を保持できる身体の仕組みを獲得することで水の少ない新しい生息域を獲得してきたことは脊椎動物の進化史にも見られる。

 生物はこのような水問題の解決とともに 1.いかにして食物を獲得するか、そして逆に 2.いかにして他の生物の食糧とならずに暮らすか、そして3.いかにして子孫を残すか、という三つの難問を同時に解決しなければならなかった。この多元方程式を多様な環境の中で解決するために生物同士の多様な相互作用が生じ、多様な関係が構築されてきた結果が現在の生物世界である。 

 だから湿度も気温も高い亜熱帯のやんばるには、本土にはない多様性がある。そんなやんばるの森を探索しながら散策してみよう。 

 やんばるの川筋を歩くとそこここにかなりの巨樹に出会う。ほとんど岩盤のような川沿いの崖地の上部には、板根を発達させたオキナワウラジロガシがまるで斜面の崩落を食い止めるがごとく岩盤に板根を伸ばして立っている。

f:id:syara9sai:20190325155743j:plain

川縁の岩盤にそそり立つオキナワウラジロガシの巨木

 日本最大のドングリで知られるオキナワウラジロガシであるが、今、このオキナワウラジロガシは毎年の皆伐で姿を消しつつある。その辺の事情を少し詳しく述べたいが、それは回を改めてのこととしたい。ここまでやんばるの森事情を紹介しようと書き始めてものの、どうもそう簡単には話が進みそうにない。ということですこし予定を変更して、これからはシリーズでやんばるの森事情を紹介していくことにします。

 次回はオキナワウラジロガシについて、これまで調査してきてわかったことなどを少し詳しくお話をします。ということで、中途半端ではありますが、今回はこのくらいにしておきます。

 

 

 

 

 

2019年やんばる紀行-森林破壊の現場を歩く

 暖冬とはいえまだ肌寒さが残る広島の我が家を出て、岩国空港へ。ここから約2時間ほどのフライトで沖縄県那覇空港に着く。3月2日土曜日、那覇は薄曇り。機外へでるとねっとりした暖気が身体を包み込む。やはり那覇はもう夏だ。Tシャツだけでも十分暑い。空港で北海道から来る市川弁護士らと合流して、レンタカーで最北部のやんばる(国頭村)へ向かう。伐採現場を訪ねる私たちのやんばる通いはもう11年目となる。

 やんばるの森林整備事業を巡っては、2008年から2014年の6年にわたって争われた第2次「命の森やんばる訴訟」で実質的な勝訴を収め、県営林の伐採とそれに関わる林道工事は止まった。

 しかしことはそう簡単ではなく、やんばるに存在する国頭村の村有林は訴訟の対象ではなかったために毎年10ヘクタールの森林伐採が続いている。

f:id:syara9sai:20190311160556j:plain

謝敷(じゃしき)の現場

 ご存じのようにやんばるの森には多くの固有種が生息し、極めて特徴的な生物的自然の残る地域として「世界自然遺産」としての価値を有する地域である。その価値は県も、地元も国も認めていながら、こうした森林破壊は止むことがないしこの実態は基地問題にかくれて余りよく知られていないのが実情だ。

 昨年の登録延期決定を受けて、国は米軍演習場の返還地を国立公園に組み込むことで再度、登録申請をしたが、根本的な自然破壊活動には目をつむったままだ。こうした現状にストップをかけようと地元の弁護士や市民が協働して「沖縄DONぐりーず」なるNGOを立ち上げ活動を開始した。私たち日本森林生態系保護ネットワークもこれに協力する形で訴訟と調査活動を行っている。

 今回は情報公開請求によって明らかとなっている、2018年度の伐採予定地である、辺戸と宜名真の伐採現場を視察することにしていた.。ところが宜名真では伐採した形跡がなく、その代わり、偶然、謝敷で新しい伐採現場を確認したのである。この謝敷の伐採は、公開請求後に新たに計画されたものなのかも知れない。とはいえ、見た以上は現場を見ておく必要がある、ということで今回は、辺戸と謝敷の伐採現場の状況と、皆伐という事業がやんばるの生物多様性にどのような影響を与えるかということについて2-3回に分けてレポートすることにする。 

伐採現場を歩く

1.辺戸・吉波山

  国頭村の計画によれば、<辺戸・吉波山1149-1>における今回の伐採面積は書類上では1.49haということになっている。しかし現場に立ってみるとどうもそれ以上の広さえる。図面上ではわずか1.49haとはいえ、実面積でいえばその1.5倍から2倍近かそれ以上にまでになる。こうした皆伐による生物への影響は決して小さくはない。

 国頭村辺土名から国道58号線を北上し、最北端の辺戸岬への分岐を東進し奥集落方面へしばらく走って、細い舗装道路を左折する。ここは観光客も訪れることのない森林が広がっている。遠くに石林山がそびえ、独特な雰囲気を醸し出している。写真は2012年の伐採現場跡地で、6年後の今ではちょっと見にはだいぶ森林植生が復活しているように見える。

f:id:syara9sai:20190315140344j:plain

 

f:id:syara9sai:20190315141514j:plain

f:id:syara9sai:20190315141556j:plain

 伐採現場へ足を踏み入れるとまず作業道として切り開かれる林地の惨状が目に飛び込んでくる。腐葉土層を含む土壌を破壊し、無機質に赤土が露出し、雨が降れば真っ赤な泥流が沢を流れ下る。河川に流入した粘土質の赤土はコロイド状になって河床や海岸周辺に堆積する。そのため浅海性のサンゴは死滅する。

 現場は沢に沿った右岸の斜面。ほぼ直線的に数百メートルの尾根から谷底まで幅100メートルほどの規模で森がはぎ取られている。尾根近くにはうち捨てられた枯損木や枝が積み上げられ無残なゴミの山が残されている。かつてはイタジイやイジュが優占する林齢40年ほどの林が広がっていたことが伐痕から見て取れる。もう少し放置しておけば、ノグチゲラが営巣することができる程度(直径20cm)のイタジイに成長するであろうに、もったいないことである。

2謝敷・(林道佐手与那線)

 この謝敷の伐採現場は事前に情報がなく、偶然見つけた現場である。謝敷、佐手地区では以前から伐採が進んでいるのだが、その理由は「しょぼい森」ということで、やんばる型林業における林業生産区域に指定されており、5ha未満であればほぼ自由に伐採できる事になっている。ところが、謝敷を含んでこの周辺には、オキナワウラジロガシやイタジイの巨樹が残存する立派な森林が残っていて、貴重なストックとして重要な地域なのだ。

f:id:syara9sai:20190316113550j:plain

オキナワウラジロガシ

 

f:id:syara9sai:20190317172421j:plain

f:id:syara9sai:20190316113642j:plain

人の大きさと比べてみるとその太さがわかる

f:id:syara9sai:20190316113802j:plain

謝敷の伐採現場

 この伐採現場に立ってみて、まず驚いたのはその伐痕の太さである。全体を俯瞰してみればわかるが、巨大な伐痕がかなりの間隔を置いて認められる。つまり、ここにはイタジイやオキナワウラジロガシの巨木が生い茂る熟成した森林であったということだ。辺戸の現場と異なり、細い樹木の残骸はない。巨樹が樹冠を覆い、林床に光が届かず林床植生も若木も多くはない、そんな森であったことが見えてくるではないか(動画有り)。

 環境省はこのやんばるを含む南西諸島を世界自然遺産登録を目指してこの2月にユネスコに再申請したという。米軍返還基地を国立公園に編入したことでハードルをクリアしたということなのだろう。しかし、現実にはこうした森林破壊が続いており、生息地の消滅、分断、孤立化という、やんばるの生物にとっての脅威は日に日に強まっている。

 次回は森林伐採によってやんばるの自然生態系にとってどのような危機が生じるのかという点について生態学的な視点から考えて見たい。
 

 

 

ニホンザルのスギ花粉症-発見物語

 2019年3月14日付けの毎日新聞1面にニホンザルの花粉症に関する記事が掲載されていました。淡路島モンキーセンターに花粉症のサルがいるという、いわゆる季節の話題といった記事なのですが、この記事からは何時どのようにしてサルの杉花粉症が見つかったのかという点について、関係者として改めて紹介してみようという気になったのです。

 記事によれはニホンザルにスギ花粉症が発見されたのはおよそ30年ほど前とされていますが、正確には1986年、宮島でのことです。

 発見のいきさつは、1984年4月発行のモンキータイムス宮島版Vol.13-No.14に記事になっているのですが、当時のタイムス(タイムズではなくタイムス)の記事を覚えている人もいないでしょうから、ここに再録した上で、加筆して紹介することにします。
*以下、当時の記事から引用* 
 今年(1984年)で24才になる年寄りのメス(このメスは、今の宮島群の中でただ一頭の小豆島生まれのサルである)が、しきりと目をこすっている。一度手首あたりをなめ、その手で目をこすっている。いわゆる洗顔と同じである。はて、と見れば、両目とも腫れ上がって、上下のまぶたがひっつき、つぶれてしまっているようだ。くしゃみはするわ、涎は流すわで、たいそうしんどそうな様子である。風邪でもひいたかと思っていると、他にも同じ症状のサルが2頭いる。

f:id:syara9sai:20190315202818j:plain

f:id:syara9sai:20190314154801j:plain


 まてよ。そういえば、このサルたちは去年も、いや一昨年も同じように眼を腫らしていたではないか。確か数年前から、春先になると、決まってこんな症状を見せるサルがいることに思い至った。一体全体どうしたというのだろう。毎年同じ時期に同じような症状を見せる。何かあるに違いない漠然とそんな感じを持っていた。ところがある日、突然「あっ、もしかしたらこれだ」と、直感がひらめいた。
 「おはようございます。私、花粉アレルギーかしら」と言って潤んだ目をして山口さんが出勤してきた。「涙やらくしゃみやら大変なんですよ」。このとき、私には妙にあのサルたちと山口さんがダブって見えた。「もしかしたらあのサルたちも花粉アレルギーなのではないだろうか」、もしそうだとすれば、大変面白いことだ。今までサルに、いや人間以外の野生動物に花粉アレルギーがあるなんて話は聞いたことがない。常識で考えても山野を生活の場にしているニホンザルがそんなにデリケートであるはずがない。場合によっては生死に関わる体質といえよう。
 とはいえ、今の段階では「花粉アレルギー症」と決まったわけではなく、状況証拠があるだけだから、今後は専門の研究者と協力して真相を明らかにしていかねばならないであろう。もしこのサルが本当に花粉アレルギーということにでもなれば、サルには悪いが野生動物として何とも締まらない話である。
                             *以上、記事引用 *

 さてこの話を聞きつけた地元中国新聞の記者が京都大学霊長類研究所にその真偽のほどを確かめようとして問い合わせた結果、「野生動物のサルにスギ花粉症はあり得ない」とのコメントを受け、それが新聞記事となって世間に伝わった。そこでこの件は一件落着したかにみえた。

 ところが、スギの花粉症に悩む霊長類研究所の研究者が伝え聞いたこの話をされに主治医(耳鼻咽喉科)である横田医師(当時:名古屋大学医学部)に伝えたところ、横田医師は大いに関心を示し、実際に確かめてみようということになった。

 1985年4月のことである。広島市内に用事があったくだんの横田医師は、宮島へ足を伸ばし、アレルギー治療のための皮内テストを行い、さらにアレルゲン試薬をサルの目に投与して症状が出るかどうかの実験を行ったのである。 

f:id:syara9sai:20190314155724j:plain

8種類アレルゲンを用いた皮内テスト

 

f:id:syara9sai:20190314155827j:plain

スギの抗原を用いた点眼テスト

 残念なことに皮内テストでは、発症する赤斑の大きさを定規を当てて測ろうとしてもサルの皮膚のたるみが大きく、正確に測ることができず、点眼試験でははっきりした症状が認められないという結果になった。そもそも人間用の試薬を使用してテストで試薬の濃度の適正値も定かではなく、その有効性が不明ではっきりした結果は得られなかったのも無理からぬことではあった。

「どうもはっきりしませんねぇ。でも話を聞く限りでは、花粉症である可能性が高いように思います。」ということで、翌年(1986年)、もっと本格的に調査してみましょうということになった。

 そして翌1986年、京大の霊長類研究所と横田医師の調査チームが再来し、症状を持つ個体に加えて何頭かのサルを捕獲し、採血を含む本格的な調査調査を行い、後日、症状を有する個体の血中からスギに特異的なIg E抗体を発見したのである。ここにニホンザルのスギ花粉症が科学的な証拠に基づいて確認されたのである(霊 長 類 研 究 Primate Res. 3: 112-118, 1987) 

 事実が明らかになると、多くの研究者がサルの花粉症を研究対象にと望み、今では生理学、遺伝学的な詳細な研究が進展しているということを風の便りに聞く。

と同時に、それまで各地の野猿公苑や動物園に対して花粉症らしい個体の存否を訪ねるアンケートを出しても、ほとんど罹患している個体の発見は難しかったのだが、このニュースが各メディアで報道されると、あっちからもこっちからも花粉症と疑われるサルが見つかったのである。

 なかでも、淡路島モンキーセンターではかなりの数のサルが花粉症に罹患していることがわかってきた。

 さて、今(2002年現在)の宮島のサルはどうだろうか。実は皮肉にも、花粉症が明らかになった頃から、花粉症に典型的な症状は比較的少なくなってきている。その原因はよく分からない。花粉症の因子を持っているサルは少なからずいるのだが、発症しない。これは、もしかすると、大気が以前よりもきれいになってきていることの証なのかもしれない。あるいは、花粉の飛散量が少ない年が続いているからかもしれない。人間はかなり敏感で、わずかな花粉量でも発症するが、サルはもう少し鈍感なのかもしれない。
 いずれにしても、この当時、私が宮島のサルと出会っていなかったら、サルの花粉症は知られていなかったであろう。当時花粉症支持派はほとんどいなかったのだから。 それはともかく、花粉症のサルの写真をご覧ください。1984年に撮影したものです。

(宮島の餌付け群は動物愛護法の改正により、野外飼育ができなくなったため、2010年に犬山市の財団法人日本モンキーセンターへ移送され、以後同園内で飼育されている)

サルと屋久島・ヤクザル調査とフィールドワーク

f:id:syara9sai:20190107164120j:plain

 私がいわゆるサル学を志したのは、1973年のことである。S大学の生化学科に入ってまもなくのことだ。大学に入るまでに時間を要した私は、それなりに多くの疑問を抱き、やっと生命とは何かという問題に取り組んでみようと思い出していた。
 医学部の受験に失敗し、生化学こそそれに答えを与えてくれる学問分野と思い込んでここに進んだのであるが、すぐに違和感を覚えたものである。
 還元主義的な力学的世界で解明できそうにないことが、うすうす感じ取れた。そんなときたまたま、T大学で伊谷純一郎さんのサル学の集中講義があると聞き込んで、聴講しに出かけていった。そしてそこで衝撃を受けたのである。
 私はそこで生命体が暮らしを持つこと、そのことで初めて生物として存在するということ、つまり生活を科学するという新たな世界に気がついたのである。
 そこからは一目散にサル学の世界へ走り込んだ。そして1975年だったと思うのだが、京大のヤクザル調査に参加するため初めて屋久島を訪れた。このとき関東では東大・東京農工大を中心に野生のニホンザル調査グループが雑誌「ニホンザル編集会議」を立ち上げようとしていた。そこで屋久島のサルの行列の様子を8ミリ動画に記録してくるというミッションを受けて参加することになった。
 調査も最終段階に入って、西部林道の工事場の群れを見ていた同い年の丸橋さんについてサルの群れが林道を横断する場面を記録することにした。丸橋さんは大学院進学を決めて屋久島での調査を行うことになっていて、工事場の群れをよく観察していた。夏の昼下がり、木陰に入って群れの登場を待っていたが、まだしばらくは林道まで降りてきそうにないとうことで、二人で昼寝をして待つことにした。それがいけなかった。ふと目を覚ますとサルの群れは既に林道を渡り海側の斜面に移動してしまっていた。とんでもない失敗をしてしまったという苦い経験をした島である。


 この調査をきっかけに、紆余曲折を経ながらも途絶えることもなく屋久島での調査が継続されてきた。 そして1989年屋久島のニホンザルの生態調査を目的として、ヤクザル調査隊(隊長好廣眞一)が結成され、大きな成果をあげてきた。
  その成果の一端を語る「サルと屋久島」という面白い本が出版された。この本はいわゆるサルの行動や社会生活を紹介したものではないが、生態学という学問の面白さ、中でもフィールドワークの醍醐味を伝えるという点で貴重な読み物である。
 半谷悟朗・松原始という中堅の生態学者の屋久島での奮闘ぶりとその経験談は、学生はもちろん、研究者を志す若者、現役の研究者などにも大いに参考となるにちがいない。昨今の生態学は汎遺伝子論やモデル化、さらには野生生物管理学などが主流となっており、博物学的なフィールドワークは影を潜めている。しかし環境と暮らしとの関係を追求する生態学は本来、フィールドワークが基本となるべき分野である。これは極めて効率の悪い、成果の出にくい学問であるが、決してムダなものではない。生物の有り様は極めて多様で複雑なものだ。彼らの了見を知ろうとすれば、フィールドにでて直接観察する以外に方法はない。とはいえそんなことを口に出して言えば、懐古趣味のノスタルジーにすぎないとう批判をあびるのがおちである。
 しかしこの「サルと屋久島」という本はそんな批難に動じることなく、フィールドワークの価値を淡々と語っている。そこに大きな価値があるように思える。是非手にとって、読んでみてください。
 サルと屋久島 ヤクザル調査隊とフィールドワーク
 半谷悟朗・松原始 著 旅するミシン店 1600+税

アマゾンでの取り扱いはありません。
http://tabisurumishinten.com へアクセスしてみたください。
池袋ジュンク堂でも扱っていました。

川に生きるー新村安雄 読んでみませんか

 ニホンザルの行動学、生態学に没頭していた頃には、川の問題についてはそれほど強い関心は持っていなかった。というより持ち得なかったというべきだろう。しかしながらニホンザルの進化に伴う諸問題を考えるうちに、哺乳類としてのニホンザルを考えるという視点から、やがて学問的な関心は大型哺乳類の生活史へと広がってきた。中でも西中国山地ツキノワグマの生態調査を行うことになってからは、川の生物生産という点を無視し得ない重要な問題であることに気がついた。

 そんなところに、西中国山地国定公園内の細見谷渓畔林を縦貫する「大規模林道計画」への反対運動に関わることで、森林ー川ー海という流域一体の生態学的視点は必要不可欠なものとなった。

 ついでにいえば、アサリの養殖に手を染めたことで実生活にも直結する問題になってきたのです。

 幸い、この細見谷渓畔林を縦貫する大規模林道問題は中止となったのだが、しかし全国各地での森林、河川、海岸の破壊は今でも止むこことはなく、日々、破壊は続いている。それは野生生物の生息を危うくするだけではなく、地域の人々の暮らしをも破壊する。しかし地域外の人にとっては自身の問題としてとらえることはほとんどできていない。こうした問題はやがて私たちの将来を破壊するものであるという認識が持てないことに少なからぬ苛立ちを感じて入るがもどかしい限りである。

 とはいえ、希望が全くないわけではない。御用学者に比べれば数は少ないものの、人々の暮らしという視点から、自然破壊の問題を捉え、告発している研究者・学者・市民はいるのである。

f:id:syara9sai:20181016145045j:plain

 先日、中日新聞者から発行された、「川に生きるー新村安雄」はそんな希望を持たせる好著である。

 もとは中日新聞に連載されたものを再編集して上梓されたものであるが、大変読み応えがあるものに仕上がっている。人々にとって川が暮らしとどのように関わってきたのか、魚(ほとんど鮎だが)の暮らす場としての川とは、そして川を取り巻く破壊の現状など、広い視点で書かれた本書は、自然保護の意味を人の暮らしと関連づけて考える格好の教材となっている。

 自然保護は人の暮らしと不可分であるのだが、多くの市民は「自然好きのわがまま」程度にしか理解していなことも事実である。自然を保護するということは、目先の暮らしを意識しつつも将来にわたる子々孫々にわたる生存をかけた運動であることを多くの市民に理解してもらうにはどうすればいいのか日々悩みはつきない。

 この「川に生きる」は決して保護運動を大上段にかまえるのではなく、流域の人々との交流をとおしてその辺のことをじんわりと伝える記事にあふれている。

 行政や政治に携わり、政策の意思決定に関わる人たちには是非、目を通していただきたい一書である。

 もちろん、学生諸君にも市井の皆さんにも一読していただき、自然保護に対する認識を新たにしていただきたいと思っています。

1300円+税です。図書館へのリクエストもいいかもしれません。

 

イノシシとシシウド

 今年の雨の降り方は半端じゃない。広島県の瀬戸内沿岸部では大変な被害をもたらしたことは、連日の報道のとおりである。幸い広島県西部ではそれほどの被害はなかったものの、調査地の沢は河床が大きく洗われ、瀬では砂礫が流され、新たな淵が形成されたり、あるいは既存の淵が消失したりとその変化は生物の暮らしにも影響を与えたに違いない。

 世の中は何か常なる飛鳥川きのうの淵ぞ今日の瀬となる (古今集

という、自然は常に動的ということを実感させるに十分な大雨であった。 

f:id:syara9sai:20180818132809j:plain

イノシシがシシウドを菜食した現場

 話は少しずれるが、真夏のクマの食物として重要な位置を占めているウワミズザクラ。毎年、ある程度の実りがあってクマはお盆の頃、恒例のようにウワミズザクラの樹にやってくるのだが、ここ数年はどうも不作続きで今年は特に酷いようだ。

今年の様子を写真に採ってきたのだが、ごらんの様にほとんど実がついていない。f:id:syara9sai:20180818134147j:plain

f:id:syara9sai:20180818134652j:plain

 これでは食べたくとも食べようがない。初夏の花付きは決して悪くはなかったので、激しい雨のせいなのかも知れない。とにかくこの大雨でアリもハチもことごとく巣ごと流されてしまったかのようで、森林内にはアリもハチもアブもほとんどいない。かつての細見谷地域の夏は、アブの大群に悩まされたものだが、今はそんなことはない。半袖のTシャツでもなんの不都合もないほど穏やかなのだ。それだけではない。セミの声もなく、わずかに聞こえてくる音の中で生きものらしい音といえばソウシチョウの声だけである。これは雨だけのせいでもないだろう。今、森林帯の生産力衰退が危機的状況になってきているのだが、ほとんどの人たちは全くその事実を知ることがない。

 静かに破滅的状況が近づいてきているような不気味さを感じながら調査行を続けている。この夏の 雨続きでカメラも故障しがちになる。そこで一時引き上げて乾燥させ、安定した状態に戻したカメラを再設置してきたのだが、沢の至る所でイノシシがシシウドを掘り返している現場に遭遇した。調査地の沢を片っ端からシシウドの根を掘り起こし、太い木化した根を食べているのだ。これまでシシウドは初夏にクマが柔らかい地上部の茎を食べた痕跡はかなり目にしていたが、今年はそれも目につかないほどクマの痕跡は薄くなっていた。

 そもそもシシウドを漢字で表記すると「猪独活」である。その原義は、「ウドに似るが堅くて食べられず、イノシシが食べるのに適している」ことからの命名だという。ウドはウコギ科でシシウドはセリ科に属している。実際には食べられないこともないようだが山菜としての価値はあまりない。ただ、沈痛、鎮静、血管拡張などの効用が有り、漢方として利用されているようだ。またリュウマチ、神経痛、冷え性などには入浴剤としても効果があるとされている。ただし、温性なので盛夏には用いないとか。この真夏の食性からすると、どうやらイノシシはそのことを知らないらしい。

 シシウドはウドに似てはいるが、より水気の多い土地に生育しているようだ。セリ科に特有の花が咲けば、間違うことはない。北海道では寄り大型のエゾニュウが生育している。この花のてっぺんで囀るノゴマは野鳥図鑑でもおなじみである。

 シシウドの根は太く木化しており、漢方にはなっても、歯が立ちそうにない。しかし今年に限ってはイノシシはこれをよって食べているのだが、なるほどシシウドと納得する食べっぷりである。

f:id:syara9sai:20180818140539j:plain

f:id:syara9sai:20180818140252j:plain

 泥だらけの食べ残しを沢で洗ってみたのだが、太く堅い根をしっかりと食べていることがわかる。この採食の様子はVTRでも確認できたが、かなり時間を掛けて丹念に掘り起こして食べ歩いていたことが見て取れた。

 夏も終わろうとする8月下旬頃から、クマはブナの若い果実を目当てにやってくる。イノシシはシシウドで夏を乗り切ることができそうだが、クマはどうだろうか。頼みの昆虫類がないとなるとかなり厳しい夏となりそうだ。

 甘くジューシーな果実があれば、何とかこの夏もしのげるかも知れない。幸い、その後に稔るミズキやサルナシなどは豊作の模様だ。クマはこの夏場何を糧にしのいでいるのだろうか。痕跡の薄さが気になる調査行であった。

オシドリが繁殖していた。母親と7羽の雛

やっぱり、オシドリがいた 。
細見谷でオシドリが繁殖している可能性が高い。
HFMエコロジー・ニュース54(211)で書いたのが2007年5月30日のことだ。

とはいえ、このときも繁殖の事実を確認するには至らなかった。
 かつて、吉和ではオシドリの繁殖が確認されていたし、細見谷を含む県内各地で越冬するオシドリが観察されてきたが、こと繁殖ということになると、吉和ではここ20年以上もその記録はない。

ちなみに広島県レッドリスト最新版では、「要注意」の定義は、要注意種(AN)評価するだけの情報が不足している種,または,広島県の自然特性等から保護上の重要度の高い種現時点では絶滅危険度の評価は困難であるが,上記のランクに移行する要素を有するもの、だそうだが、何のことやら意味不明だが、要するに実態が不明ということ。野生生物のフィールド調査をしていないのだから情報不足はべつにオシドリに限ったことではないのですが。とにかくよくわからないが希少であるということです。

http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/139053.pdf

f:id:syara9sai:20180613103720j:plain

オシドリのペア 2008年

 その後、細見谷川流域でクマの調査を続けているが、その調査の過程で思わぬ発見がある。特に野鳥に関する貴重なデータが集まる傾向がある。クマタカハイタカオオコノハズク、アオシギなど思いがけぬ姿をとらえることができている。またミゾゴイの繁殖も初めて確認することができた。そして今年はオシドリの繁殖が見事に確認できた。写真は動画を切り取ったので背景に溶け込んで見にくいが、母親の後を着いて歩く7羽の雛が写っている。雛は歩くというより流れに身を任せて必死に親の後をついて行くといったほうが正確かも知れない。とにかくその必死さがかわいいのです。

f:id:syara9sai:20180613104619j:plain

www.facebook.com

 きっとこの上流にある樹洞が営巣地なのでしょう。それを確かめる仕事ができた。うれしいやら大変やら、老体の身が持ちそうにない。

 西中国山地国定公園の一角を占める細見谷渓畔林流域はクマだけではなく野鳥にとっても最後の避難地となっているのではないだろうか。その意味ではこの流域一帯を国定公園の特別保護区に指定し、多様性の保全を計る必要がある。

 こういうと自然保護では「飯は食えない」という反論が聞こえてくるが、それは何も野生動植物のためだけの政策ではない。むしろ私たちの生存に直結した問題なのだ。
 なぜならこうした多くの貴重なストックと生産力の維持こそが経済の持続性を保証し、我々の生存にとって欠かせないものであるからなのだ。

 

大野権現山周辺のベニマンサク

 2018年6月2日土曜日、天気も良く久しぶりに地元の大野権現山へ出かけてみた。ほぼ25年ぶりのことだ。大野自然観察の森の駐車場に車を置いて、約2Kmほどの旧佐伯町との町境にある標高699.2mで旧大野町最高峰となる。

 大野自然観察の森は1984年から環境省が主体となり、各地方公共団体と整備を行った自然教育施設で、農業用のため池を中心とした通称「ベニマンサク湖」を中心に観察路が整備されている。

 開設当初は日本野鳥の会に運営を委託し、運営方針は外部の運営委員の合議でということになっていた。私自身もアニマルトラッキングなどの観察会を引き受けたりしてかなりの関与していたのだが、まもなく運営主体の大野町は財政負担に耐えられず委託は解消され、大野町の直営となった。

 当時私も運営委員を引き受けていたが、飲料水の自動販売機の設置を巡って設置不可の答申をしたことで、ほとんどの委員が解任されてしまった。というわけでそれ以後は、足が遠のいてしまったというわけである。

 ここ大野自然観察の森の目玉はなんといっても「ベニマンサク」である。駐車場に車を止めて遊歩道を歩くと川沿いにこのベニマンサクが並木をなしている。今はまだ紅葉していないが、特徴的な果実を見ることができる。

f:id:syara9sai:20180607151358j:plain

 ちなみに秋になると写真のように真っ赤に紅葉するが、同時に赤い花弁の花を同時に楽しむことができる。

f:id:syara9sai:20180607151116j:plain

秋のベニマンサク、赤い花も見ることができる。

 標準和名はマルバノキ(Disanthuus cercidifolia)。ハート型の葉の形だけを見るとマメ科ハナズオウによく似ているが、あまりなじみのない方が多いのではないだろうか。というのもこのマルバノキは岐阜、長野、愛知、滋賀、福井、高知と広島(旧大野町)のみに分布が限られているのでそれもやむを得ないだろう。

 広島県では県の天然記念物に指定されているのだが、その分布の実態が曖昧なため、1992年に総合調査を行い、翌93年(平成5年)に報告書としてまとめている。

 もともと大野地区の人々はこの木をバンノキと呼んでよく知られた植物だったようなのだが、植物学会ではマルバノキが大野地区に群生していることは知られていなかった。こうしたことはよくあることで、やんばるの固有種・ヤンバルクイナも地元の人たちは飛べない鳥がいることは知っていたが、その存在は学界には知られていなかった。やがてそれが学者の目にとまって、固有種の「ヤンバルクイナ」として学界に認知荒れると「世紀の大発見」となったのである。

 マルバノキが学界に知られるようになったのは1931年(昭和6年)のことである。広島山岳会に所属していた平川一秋氏(故人)が大野権現登山の帰路、現在の自然観察のある湿地で1本だけ紅葉している樹木に目がとまり、茶褐色の果実の着いた枝を採取して持ち帰り、佐藤月二(広島県師範学校助手、後に広島大学教授)氏に同定を依頼したという。当初、佐藤はなにやらよくわからないが、どうもハナズオウのようだとの感想を持ったが、後日、果実を見てマンサク科の特徴を持つことに驚き、マンサク科のマルバノキであるとの見当をつけ、田代善太郎、高木哲雄に連絡し、最終的に牧野富太郎によってマルバノキと同定されたということである。(べにまんさく総合学術調査報告書・大野町教育委員会 1993年より一部抜粋)

 このベニマンサクは水辺に群生しているが、当時調査してみた経験からは川の水面っから3m以内のところに生育しているケースが多く、水流による種子頒布をしているのではないかと考えている。多くの湿地が破壊され乾燥化していく中で分布がかなり分断してしまったのであろう。秋に咲く花は赤い糸が放射状に伸びる星のような形をしていて、なかなか美しいのだが、ドクダミによく似た悪臭を放つ。これが昆虫類を引きつけているのだ。

f:id:syara9sai:20180607154948j:plain

 つまり遊歩道沿いの植栽は不自然な並木というべきなのだが、まあ、目をつぶろう。道の反対側の乾燥した真砂土にはガンピが黄色い筒状の花つけていた。このガンピは高級和紙の原料としてかつては子どもたちの小遣い稼ぎにもなったということだが、今ではほとんど利用される事はない。ただ、樹皮の繊維はは極めて強いので登山靴の紐が切れてしまったときなどは緊急批難的に利用できる。

f:id:syara9sai:20180607155935j:plain

f:id:syara9sai:20180607155952j:plain

 そうこうしているうちに権現山登山口まできた。ここからはだらだらと小一時間ほど斜面を登る。ツツドリホトトギスキビタキの囀りも聞こえるが、イノシシ以外の野鳥もケモノも気配が薄い。手入れの悪いスギ林を抜けて尾根筋に出る。この森は若い二次林であるが、液果を稔らせる樹木が少なく、サルもクマも暮らしていけそうにもない。近隣にはクマもサルもいるのだが、残念な状況である。

 もう一つここで紹介すべき特徴がある。次の写真は、シロモジ(クスノキ科)である。暖帯から温帯の落葉樹林に分布するが、あまり多くはなく、レッドリストに掲載されている都県もある。

f:id:syara9sai:20180607160557j:plain

 だらだらと緩斜面を登ること約1時間(連れ合いの足が遅いので)。ようやく山頂にたどり着く。ここから宮島を望むと大野瀬とをはさんで駒ヶ林の絶壁も見ることができる。まあ、軽いハイキングにはいい山なのかも知れない。人混みがないのが何より。

f:id:syara9sai:20180607160651j:plain

 帰りにはベニマンサク湖に咲くヒツジグサ、(睡蓮)を堪能した。

f:id:syara9sai:20180607161032j:plain

f:id:syara9sai:20180607161045j:plain 登山の前にヴィジターセンターで入園届けをしましょう。駐車場ーヴィジターセンターー登山口ー山頂  標準所要時間片道1時間

f:id:syara9sai:20180607161100j:plain

 

アサリの養殖から見えた生物多様性喪失の問題点

 暑さ寒さも彼岸までとはいうものの本当にびっくりするくらいの急激な気温上昇である。サクラも例年より早く満開となったようだ。あっちでもこっちでも桜祭りとやらで人出も多く、出かけるのに躊躇してしまうのだが、それほど有名でないところにひっそりと咲くサクラを見物に行くのはこの時期の楽しみの一つである。サクラが咲くようになると、アサリ漁民も忙しくなる。今年は3年前に借り受けた浜(70㎡ほど)に加えて、40㎡ほどの区画を受ける事になった。

f:id:syara9sai:20180410140040j:plain


f:id:syara9sai:20180410140144j:plain

 アサリの養殖などいっても海のことだから放っておけば独占的にアサリを収穫できる権利と思う方もいるかも知れないが、それほど甘い物ではない。確かに数十年前までは特別何にもしなくとも、アサリの個体群は再生できたので、取り過ぎさえ防げば、持続的に利用できたという。しかし最近ではアサリはほぼ絶滅か絶滅危惧種というほど資源は枯渇している。商業的に見ればアサリ養殖は既に破綻しているといえるだろう。 私の住んでいる宮島の対岸、廿日市市大野地区は「手掘りあさり」としてその筋ではかなり有名な産地ではあるが、1人あたりの手掘りアサリの生産量はたかが知れている。とても事業として成り立つような収入を得ることはできない。年間の出漁日数が80日として一日平均10キログラム収穫したとしても、年間800キログラムで年収は60万円に届かない。実際には1区画あたり100キログラム出荷できればいい方なので、年収7-8万円と行ったところである。年寄りの小遣い稼ぎ程度にしかならないのだが、それでもかなりの人が漁業権を得て、アサリ養殖にいそしんでいる。かく言う私もその1人である。
 あさり養殖では労力に見合う収入を得ることはできない。現代の功利主義的商業主義からみれば馬鹿げた事業に違いない。それでも浜に出て、手入れをし、収穫を楽しむというのは、考えてみれば優雅な活動でもあり年寄りの贅沢ですらある。とはいえ潮と汗にまみれ、へとへとになりながらも活動し続けるのは何故なのだろうか。私にもその理由はよくわからない。ただ一つだけ言えるのは、そうして収穫したアサリは大きくて(貝殻長4cmほどもある)市販の物とは比べものにないおいしさが詰まっている。その楽しみが最大の動機だろうか。
 こうした素晴らしいアサリが掘れるようになるまでには、多くの労力をつぎ込まねばならない。まず、新たに借りた40㎡ほどの畑は、いわば廃田のような状態にある。干潟とはいえアサリや底生生物が極めて乏しい海底は堅く、酸素供給が十分でない地下の砂は真っ黒で硫化水素を含む還元的な土壌となっている。これを鍬やスコップで丹念に掘り起こし、十分空気に触れさせることを繰り返す。しかも他の区画に比べて少し低く窪んでいるので砂を入れてならさなければ良い畑にはならない。そこで砂の堆積場から猫車(一輪車)を使って、かなりの量の砂を運び入れる必要がある。スコップで砂だまりの砂を掘って猫車に摘み、それを100mほど離れた畑まで運んで撒く。これを何度も繰り返してやっとあさりの生活の場ができるのだが、しかしそれだけではアサリは出現しない。稚貝がいないのだからいくら待ってもアサリはとれるようにはならない。そこで、稚貝をどこからか探してこなければならない。これまでは主に熊本県から稚貝を購入していたのだが、定着率が悪いことや病原菌の混入などのデメリットがあるうえに、原産地の熊本でもアサリの減少が深刻になってきており、地元での稚貝の確保が課題となっている。
 そこで地元漁協を中心に地元産の稚貝を調達する方法(大野方式と呼ばれる)による稚貝の確保に目途が立ち、昨年から本格的な稚貝確保の態勢がととった。これについては「アサリ漁民となってみたーアサリ養殖は儲からないが役に立つ」で紹介したのでそちらを参照してください。
 さて問題は何故アサリが激減したのかという点にある。これには諸説あるが、主なものは、公共下水道の普及や公害防止策が進み、海が貧栄養状態になった。それに加えて、チヌ(黒鯛)やナルトビエイなどが増加し、アサリを食い尽くしている。というのが一般的な見方である。
 現場を見ていれば確かにその通りなのだが、よくよく考えてみれば、それは表層的な原因に過ぎず、真の原因は貧栄養の原因は主要河川にもれなく設置された多くのダムやその支流に設置されている無数の治山ダム、砂防ダムが物質循環(栄養塩類や土砂など鉱物質なども含む)を断ち切っていることの方に目を向けるべきなのだろう。  
 またチヌやナルトビエイの増加の原因は、干潟の埋立や海砂の採取、護岸工事による自然海浜の減少など陸域との断絶などによる浅域の生物多様性の貧弱化の結果、有用魚種の人工授精による養殖漁業への転換といった、近代社会の産業構造が大きく影響している。
 浜に出てみればまるで砂漠のごとく生物の影は薄い。浜を覆い尽くすほどのカニがどこへ消えたのか?チヌによるアサリの食害はこうして大きな問題となった。
 もし仮にベンケイガニやコメツキガニなどの小型ニ類やゴカイなどの底生生物が豊富であれば、これほどアサリへの食圧は高まることはないだろう。
 アサリ以外に食資源がない、そんな環境下でチヌは浜に唯一まとまって生息していたアサリに依存した暮らしをせざるを得なかったということではないだろうか。
 生物多様性の喪失は沿岸漁業にとって死活問題なのは、基本的に農業と異なり、採集の対象となる魚も魚介もすべて野生の生きものだということである。したがって漁業の対象となる生物の増減は自然の多様性とそれを基盤とした生産力に依存したものとなる。つまり生態学的な法則をより強く受ける産業なのだから、漁業を再生させるためには、森-川-海の物質循環系を再構築する必要があるということだ。森林の多様性の回復、河川からのダムの撤去、自然海浜の再生など生物学的多様性(生活の場の多様性)を取り戻す社会の構築が私たちの将来の生存を保証する道であることが重要な課題であることが年寄りのアサリ養殖から見えてきたように感じるこの頃である。
 社会資本の整備をはじめあらゆる社会政策の意思決定の過程において生態学的な視点が必要なゆえんである。

 

宮島のシカとサル-シカザル人形と色楊枝

  財団法人日本モンキーセンター(当時)によってにニホンザル47頭が香川県小豆島から宮島へ移されたのが1962年のことである。それからおよそ40年の間、ロープウエイの終点駅付近に設けられた餌場でニホンザルを観察することができたてきた。このニホンザルこそが私の研究対象でもあり、野外博物館活動の主たる対象でもあったのだが、度物愛護法の改定を機に、野生動物の野外飼育に厳しい条件が課され、やむなく宮島のサルたちは日本モンキーセンター(愛知県犬山市)の飼育施設は再移送された。ただは1995年頃に主群から分裂した一部のサルは野生化して宮島西部に遊動域を確保して生き延びている。今でこそ野生動物の移殖には高いハードルが課せられているが、サル学隆盛を極めた1960-70年代にはそうした意識は薄く、有害鳥獣駆除されたサルの処遇の四方として容認されていたのである。

 かつて宮島には野生のニホンザルが生息してたとの言い伝えがあり、明治時代に入って絶滅したと信じられていた。そこで「ニホンザル個体群の復活」が生態学的な実験ケースとして移殖にゴーサインが出されたのである。とはいえ、移殖に当たっては相当厳しい条件が課されていたことは言うまでもない。移殖の目的が学術研究に限られていたし、個体数管理もかなり厳格に守られていた。

 私は宮島でサルの生態学的研究とそれを活かした野外博物館活動を実践するという課題を与えられて赴任してきたのだが、実際、サルの暮らしぶりを見ていると、明治期にサルの群れが絶滅したと推測できる合理的理由が見つからないのだ。そこでこの疑問を説くため様々な資料を当たってみたところ野生のサルの群れはいなかったとの結論に至らざるを得ない。それではまず宮島にサルがいたという話はどこから来たのかといえばどうやら戸時代の観光ガイドブックにその原因があるようにおもえる。

f:id:syara9sai:20171127150910j:plain

大経堂(千畳閣)に店を出す楊枝屋と看板のサル・厳島図会


 江戸時代後期になると人々の交流も盛んに成、宮島も厳島詣でと称してそれなりの観光地へと発展してきた。そしてそうした潮流の中で文人墨客による宮島をモチーフにした和歌や漢詩が広まり、その中に「弥山の森に猿の声を聞く」というような創作をしたり、宮島の町中には猿が多いといったような伝聞によるフェイクニュースもどき増えてきた。今も昔も事実は伝わりにくい物だと実感する。宮島のサル絶滅を唱える人はどうやらこれを事実として取り違えたことが原因であるらしい。しかもこうした誤解に基づいてサルを厳島神社に奉納した事実もさらに絶滅説を強固なものにしたのであろう。

f:id:syara9sai:20171127150831j:plain

塔の岡の楊枝屋の庇にサルがいる・厳島図会

f:id:syara9sai:20171127232602j:plain

楊枝屋で売られていた色楊枝・厳島八景とサル、シカの10本セット、他に弁慶の七つ道具と御幣、サル、シカというセットもあった

 

f:id:syara9sai:20171128075932j:plain

色楊枝はこんなデザインの袋に入れて売られていた


 しかし江戸時代末期の観光ガイドブックとも言われている「厳島図会」をひもといてみると、サルとシカの取り扱いに大きな相違があることが見えてとれる。厳島図会にはサルもシカも描かれている。しかし面白いことに、随所に描かれているシカとは対照的にサルが描かれている場面は2カ所しかない。一つは船着き場付近の楊枝屋の軒の屋根の上で、もう一つは大経堂(今の千畳閣)に店を広げる楊枝屋の周辺である。これはどう見ても楊枝屋の看板として買われていたサルとみるのが妥当である。なぜなら、当時、サルは口腔衛生を司るものとして楊枝屋は「さるや」をなのることが多かったという。特に有名なのが、京都粟田口の「さるや」と江戸日本橋の「さるや」で、後者は今でも営業を続けている。
 明治時代千畳閣(大経堂)付近にサルがいたことはまちがいないが、これは、山口県岩国市在住の花房吉兵衛なる人物が15頭のサルを厳島神社に奉納したものである。奉納されたサルはその後街中でいたずらを繰り返し、半年ばかり後には捕獲されたという(芸備日報)。

 それより以前の江戸期にもサルの生息をうかがわせる文書は多いが、いずれも野生個体群の存在を証明するものではない。おそらく、江戸時代にいたサルは、宮島名物「色楊枝」の看板に飼われていたサルというのが真実のようだ。こうした飼われていたサルとシカは街中で暇をもてあましていたのかも知れない。サルは大変好奇心が強い生きもので、暇があれば目の周りの物を何でも遊びの対象としてしまう。楊枝屋の看板ザルも近くで休息しているシカを見れば近づいて毛繕いをしたり背中に乗ったりして遊んでいたのであろう。餌付けされたサルとシカの交渉を見ているとありそうな話ではある。
 そんなほほえましい交渉を土のひねり人形として具現化したのが、シカザル人形でなないだろうか。

f:id:syara9sai:20171127151025j:plain

f:id:syara9sai:20171127151047j:plain

f:id:syara9sai:20171127151125j:plain