昨今、生物多様性を守るということで、野生生物保全論がもてはやされている。その反面、現実には生物多様性は日々失われているのも現実である。保全論をうたう大学の講座には大きく二つの流れがある。一つは生態学的なアプローチであり、もう一つは環境政策論による社会学的政治学的なアプローチである。しかし残念なことにどちらの流れも真に自然の多様性の維持に寄与するものとはいえないのが事実であろう。
人間も生物である以上、生活していくためには環境に働きかけ、改変してしまうことは逃れようのない必然である。しかし、人間が自然的な存在でありつつも文化を持ち、自然への働きかけはこの文化というフィルターを通して、あえて言うならば文化という外的自然の中で暮らしを成り立たせる、例外的な生物となってしまっているということである。かつて生物としてのヒトは太陽エネルギーによる生産物のみに頼っていたものが、いつの日か、進化の過程で蓄積されてきた太陽エネルギーの生産物(遺産)までにも手をだして高エネルギー消費社会に生きる存在となったってしまった。このことが人類にとっていかなる意味を持つのかを考える間もない早さで進行している。ここに問題の根源があるのだが、しかし現実にはその原則にではなく、今日のやりくりに目の色を変えているのが実情である。
この本は、そうした保全論の根源的問題を提起し、考えるための指標を提供している好著である。
内容は
プロローグ
1.熱帯林とゴリラとの出会い
2.虫さん、こんにちは
3.森の中で生きるということ
4.熱帯林養成ギプス、内戦、そして保全業へ
5.新たな旅立ち~森から海へ
6.森の先住民の行く末
8.海洋地域での漁業と石油採掘
9.日本人との深い関わり
10.教育とメディアの課題
11.ぼくの生き方~これまでとこれから
12.さらに隠蔽される"真実"
エピローグ
1-3 は霊長類学者としてのフィールドワークにおけるエピソード
2-8 は霊長類生態学から保全業の実践に関わる諸問題についてであるが,それはさながら冒険小説を読んでいるような現実が緊迫感をもって迫ってくる。過酷な保全の現場と現状が伝わってくる。
9-12 は保全の裏側にある真実―社会的政治的諸問題と保全の関係について、人権や文化、経済などが複雑に絡み合う現状に画一的な答えがないという、ある意味絶望感を味わうことになるが、この点こそ、我々自身の置かれている、いわは平和で豊かな暮らしの不都合な真実を直視するところである。
全体を見渡せばほぼこのような内容である。
保全論は生態学的な問題である以上に、政治経済上の問題である。このことが問題の解決に大きな困難をもたらしている。ではどうすればいいのだろうか?
経済の持続性は生態系の持続性の可否にかかっている。こうした問題解決の原則は誰にでもわかっている(あやしいけど)。
日本における保全論の現状は、生態学講座から派生したワイルドライフマネージメントで、野生動物の駆除と防除といったテクニックが中心で、野生生物の生息地の保護ないし回復という視点はほぼ見えない。生態学であれば、生息地や生活実態の把握は欠かせないのだが、実態は恣意的な個体数推定に基づく個体数管理に過ぎない。
環境政策に至っては、現地の実情を無視した机上の空論のような政策論の展開でしかないように思える。
それに反して筆者は徹底的に現場主義である。現場を知り、現場に即して考え、解決に奔走する。その過程で見えてくる不都合な真実に悩む。筆者は決して安易な解決策を提示しているわけではないが、日常の暮らしに潜む多くの格差や矛盾に気づくことを求めている。高エネルギー消費に支えられている便利な日常生活の裏にはひどい差別と人権無視の差別が潜んでいることを。アフリカでは日常生活に欠かせない水の確保すらままならない現実、木材の確保やパームヤシ、バナナ、綿花、コーヒー、紅茶などのプランテーション造成の目的でぱ日々失われつつある熱帯林、これらはほとんどがグローバル企業経営の先進国向けの事業である。地元に還元されることはなく、逆に過重労働や差別といった人権侵害が横行する現実。
厳正に守られている国立公園の外側にはプランテーションが広がる(写真はウガンダ)
ペットカフェや動物園水族館で飼育される野生動物を確保するためにどのくらいの野生個体群の犠牲を強いているか、などなど、見るべき考えるべき不都合な真実は日常生活の至る所にある。つまり私たちの日常生活はこうした矛盾に満ちたものであるということに気づかされるのである。
保全論に関心を持つ方も、そうでない方も、この本を手に取って熟読してください。
そして熟考してください。