生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

うんちコロコロうんちはいのち

うんちコロコロうんちはいのち   きむらだいすけ さく・え
岩崎書店 2016年

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 うんちは排泄物とも呼ばれるように、多くの人は、不要なものいらないもの、あってはならないものと考えているかもしれない。たしかにうんち(フン)は動物が消化できないものを身体の外へすてるべきものなのだが、捨てる神あれば拾う神ありともいうように、不要物を利用する生き物がいることを忘れてはいけない。その意味ではうんちは排泄物でもあるが、生産物でもある。
 ただうんちにはたくさんの毒も含まれていたり、ひどく臭かったりする。だから排泄(生産)した動物や人にとっては直接の価値はない。とはいえ、このような毒もある生き物にとっては毒にはならないということがあるから生き物の世界は不思議でおもしろい。においだって、いやな匂いもなれればいい香りになることもある。
 たとえば、「くさや」という魚の干物は大変臭いが、なれれば大変おいしい食べ物となる。おいしい食べ物となれば、その臭さもごちそうに変化する。
 世の中は一事が万事これだ。多面性というのだろう。
 であれば、くさいうんちだって、おいしい食べ物として、あるいは生活の場としている生き物がいたっていいだろう。それがこの絵本のテーマである。
 動物の排泄物であるうんちを食べ、そしてそこに卵を産み付けて再生産する。この昆虫はうんちの中で生まれ、うんちの中で育つ。そして成虫となってもうんちを糧に生きる。このフン虫(フンコロガシをはじめとするコガネムシの仲間)だってうんちをする。そのうんちだって別の生き物(バクテリアなど)の食べ物(資源)となる。そしてやがて窒素や二酸化炭素などの無機物へと分解されて、大気や大地の中に戻っていく。つまりうんちはいのち(いきもの)をつなぐ一つの輪になっているということなのだ。
 とはいえ、うんちならどんなうんちでも良いというわけではない、ふんころがしにとっておいしいうんちもあればそうでないうんちもある。ここもまた面白いところである。フンコロガシが好きではない、ライオンのような肉食どうぶつのうんちを好むフン虫ももちろんいる。 うんちを通じていのちがつながっていることを楽しみながら知ることができる。なにしろ子どもたちは、とにかくうんちが好きなのだ。これは是非子どもたちに手にとってもらいたいし、おとなたちにはうんちのうんちくを子どもたちに語り聞かせてほしい。
 話は少し横道にそれるが、私もきむらだいすけさんの父親である木村しゅうじさん(漫画家にして日本を代表する動物画家・笑点カレンダーでもおなじみ)とは40年来の知り合いで、一緒に仕事をしたこともある。なかでも、サルを描かせたら右に出る人はいないとの評価を受けている木村さん挿絵を描いていただいた「にほんざる」(いちい書房)で吉村証子記念・科学読物賞(第6回 1986)をいただくことができたことは、私にとって数少ない記念碑である。
 うんちコロコロうんちはいのちの絵のタッチ、その雰囲気は木村しゅうじさんを彷彿とさせる。さすがに親子だなと感心したのである。ただ一つだけ欲を言わせてもらえれば、うんちをする際の尾の具合がもうすこし付け根をもちあげてその先を弛緩させるとよりリアルになるにちがいない。
 じつは私もかつて、うんこを巡る生態学入門を目指して、「うんころじー入門」なる本を出す予定で原稿をかいたことがあった。しかしその後あれこれとあって、原稿は手直しをすることもなくお蔵入りになってしまったり、「シカのフンからガラスを作る」というテーマで絵本をと思ってそのままになっていたりと、動物のうんちを巡ってはふんぎりの悪いことばかりだったので、この絵本は、私にとってもいい刺激となる作品での一つに違いない。
 世の中に「うんち(フン)」にまつわる図鑑や絵本は少なくないが、このように物質循環(いのちの連鎖)という視点(生態学的視点)で描かれたものはあまりお目にかからない。そこにこの絵本の価値がある。生き物は暮らしを通じて皆どこかでつながっているということを楽しみながら読み取っていただければ幸いである。