生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

北ノ俣沢を歩くーその4 斜面崩落の意味

 ブナ-ミズナラの夫婦樹から湛水域の終点まではもう2Kmほど北ノ俣沢を遡上しなければならない。その前にもう一カ所、風穴の温度測定をしなければならない。その風穴はかなり遅くまで積雪が溶けずに残るところにできた累石型の風穴で、対岸(左岸)の大規模な崩落地で垂直に切り立った崖の一角にある(写真)。

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 ここはかなり頻繁に崩落が起こる場所のようだが、最近では2008年の岩手宮城内陸地震の際に大規模な崩落があったと聞いている。その地震で崩落した巨岩が写真で見るとおり、沢の中央に鎮座していて、キタゴヨウの若木が数本生育している。落下した際には既に生育していたと言うから、岩は回転することもなく滑り落ちてきたのであろう。

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 風穴上部の切り立った岩場には、きっと崖地特有の植物も生育しているのだろうが、残念なことに、そこへたどり着くことは容易ではない。もちろん今回は見るだけでパスするしかない。しかしここも水没予定地域なのだ。この崖地周辺の尾根にはキタゴヨウがまとまって生育している。見事な針広混交林となっている。
 一通りの作業を済ませて先を急ぐ。
 天候不順が続いていたにしては、水はどこまでも澄んでいる。20cmを超えるイワナが悠然と泳ぎ、大岩の影へと消えていく。同行の釣り師、斉藤さん曰く、今日は毛針には反応して寄ってくるのだが、食いつくまでには至らない。餌を使えば簡単に釣ることはできるがねと。台風の後のイワナの食事内容を知りたくて、数匹釣り上げてもらうことにしていたのだ。そう言いつつも、斉藤さんはあくまで毛針を使っての駆け引きを楽しんでいる。私は周囲の植生や地形、沢の状況を観察しながら遡上することに専念する。
 調査地から荒倉沢・唐松沢の合流点までは、幅広の河原(瀬・早瀬)と函(淵)の繰り返しであるが、両岸の斜面は比較的なだらかで安定しているように見受けられる。それでも左岸の尾根筋はキタゴヨウが群落をなして沢筋まで続いているところもままある。

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 比較的歩きやすいのだが、何カ所かは切り立った岩を巻いていかねばならず、うっかりすると川へ落下することになる。そして、市川さんはまさにそんな不運に見舞われたのだ。「あっ」と声がしたので振り返ると、市川さんの身体は真横になって、まさに水面に没しようとしていたのである。幸いすぐに岸へ這い上がることができたが、全身ずぶ濡れで戦意喪失感は否めない。空は青く水はあくまで澄んでいる。そこでこれ以上の遡上は諦め、さわやかな日射しの中でのんびりと待っていてもらうことにして、先を急ぐ。f:id:syara9sai:20161018104244j:plain
 年寄りにはこの沢登りは、楽しくもあるが、けっこうきつい作業でもある。何しろ地面が平ではなく、ぬるぬるとした大石小石が歩行を不規則なものにし、時折、絶壁をトラバースしなくてはならないのだから、年寄り向きではない。
 広い河原にでてしばらく歩くと、正面にキタゴヨウが見えてきた。その左右から水が流れてきている。どうやらここが荒倉沢と唐松沢との合流点のようだ。左手から流れ込む唐松沢は岩盤を流れてきており、川底はなめらかな岩盤である。水量は多い。一方の荒倉沢は大小の石が堆積しており、少し高い位置から水流が合流点へ流れ落ちている。湛水域はこの少し上流までとなる。ここ合流点は標高520mほどである。

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 合流点から荒倉沢側、つまり北ノ俣沢右岸をみると、河畔には1m近く石が堆積している。石の大きさは様々だが、大きいもので1㎥ほどのものからこぶし大ていど石である。その多くがどうやら火山性の岩石で節理にそって割れたもののようだが、角は丸く削れている。こうしてみると荒倉沢は北ノ俣沢の礫の主たる供給源となっているのであろう。北ノ俣沢右岸の山塊はガレ地が多く、斜面のあちこちに崩落した跡が残っている。おそら急斜面に厚く積もった雪がなだれることで斜面は崩落する一種の雪食地形(アバランチシュート)なのだろう思う。

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 荒倉沢出口周辺に堆積しているようなサイズの石であれば、春の雪解けや大雨での激流で流されるのではないだろうか。川幅が広くなる瀬あたりに広がる河原が、テンをはじめ様々な動物たちの暮らしの場となっていることは、歩いてみてその痕跡の多さが証明している。もし仮にダムが完成し、湛水が始まれば河原は水没し、切り立った斜面からいきなり水域という野生動物にとっては生活圏の断絶が大きな問題となる。主要通行用の道としての場もなくなり、対岸への行き来も困難な状況となるに違いない。そして、さらに大きな問題は堆砂の問題である。現在の水流であれば、多くの砂礫は川に流され下流へと運ばれるのだが、ダムが水流を止めると、たちまちダム湖に堆積する。その量はいかほどか。泥質(火山灰)の砂礫がおおい木賊沢からの流入も併せて考えれば、たちまち湛水域の水底は砂礫と有機物が堆積するに違いない。富栄養化も問題となろう。

 

 本来、これらは流下して下流域に栄養豊かな土砂を提供しつつ最終的には海浜を形成し、海の生物相をはぐくむ貴重な資源となるものである。それがダム湖に堆積すると、有機物を含む砂泥がヘドロ化し生物の生存を阻害するものとなる。それを除去するには大量の経費とエネルギーを投入する必要がある。自然を徹底的に破壊し、負の遺産をのこすムダなダムをなぜ作らねばならないのか。合理的な説明はない。
 人の暮らしは当たり前のことだが、生物の生産力に依存している。自然の生産力を破壊すれば、行き着くところ生活圏の破壊に他ならない。これは自明の理である。持続可能性を追求していけば、自然の生産力の持続性、多様性の持続性に行き着くのだ。それを実現するのが政治というものではないのか。
 話を少し戻そう。イワナは何を食べていたのか気にかかる。
 釣り師の斉藤さんは、最後の最後で餌つりをすることにして、唐松沢へ入っていった。私は合流点付近で休憩しながら観察をして待っていると、まもなく2匹のイワナを釣って戻ってきた。早速、胃の内容物を見聞することにした。ナイフで胃袋を取り出し、内容物を絞り出すが、何にもでてこない。うち続く雨で水生昆虫も流されてしまった上に、風で陸生昆虫類も飛ばされ、今の水中は食糧不足なのかもしれない。とはいえ小さな支流にはまだまだヨコエビなどの生物が豊富なので、まもなく回復して産卵期を迎えるに違いない。

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