生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

暇つぶしの散歩―西国街道―

 私の住んでいる団地は宮島の対岸の小山を造成したせいで、団地から見る景色はなかなかのものである。海辺でもあり、高台でもあるので厳島神社の朱の大鳥居も遠望できる。まさにリゾート地かつ適度な田舎で、災害も少なく本当に暮らしやすいところなのである。都会の雑踏の中で日々暮らしている人から見ればうらやましい限りなのかもしれない。
 だが、しかしなのである。散歩に適した環境ではない。それが唯一の大いなる不満なのである。贅沢な不満と言えばその通りなのだが、散歩の途中で、ちょいと蕎麦屋に立ち寄ってとか、お寺の境内で団子をいただくとか、 はたまた町並みを見物しながらぶらぶらとなんて楽しみが得られないのだ。歩くところといえば、新興住宅地。うかつにカメラでも持ち歩いていれば、それこそ不審者として警察に通報されかねない。国道は交通量も多く、ホコリと排気ガスの洗礼を受けなければならない。決まり切った田舎道をひたすら歩く、これが日常の散歩なのである。
 そんな貧しい散歩環境の中ではあるが、ただ一本だけ歴史を感じさせる道がある。西国街道(山陽道)である。ほんの一部だけだが、江戸期の名残ととどめる部分があり、歴史の散歩道として整備されている。

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 現在、広島市から山口県岩国市までは、国道2号線が海沿いに走り、平行してJR山陽本線が敷設されているが、こうした海沿いの道路と鉄道が整備されたのは明治期以降の埋め立てによってである。江戸時代、広島城下の草津--大竹間は海岸沿いに平地はなく、この間の山陽道は連続する山越えの難所であったことは以外と知られていない。
 従って当時の旅人たちは、この山越えの難所を避け、草津から船を出して厳島(宮島)へ渡り、ここで一泊して翌日、又船で大竹(小方)へ抜けるのが一般的であったという。
 そこで宮島が多くの旅人の休息地となり、待ちには色街などもできて繁盛したという。(この辺の事情は「宮島のシカとサル-シカザル人形と色楊枝」 を参照してください。)
 長崎へ遊学した司馬江漢も途中このようにして宮島へ立ち寄っていたようである。司馬江漢の書き残したもの(『江漢西遊日記』) にも記録が残っていると記憶している。

 つまり、わが大野の歴史の散歩道は難所故にパスされてしまった場所なのかもしれないが、それでも幕府の長州征伐の戦場となったりとそれなりに歴史的なイベントに関係している道でもある。

  そんな歴史的な道を新型コロナウィルス肺炎の影響で、通っていたジムをやめ、運動不足が目立ち始めたので、やむなく散歩をする羽目になった。ということで、今日は由緒ある歴史の散歩道を歩いてきた。
 家をでて団地の西へと坂を下る。途中団地の公園にはマテバシイが植栽されていて、昨年受粉した若い果実(どんぐり)が膨らみ始めていた。その先の今年の枝には雄花の花穂が伸びている。それを写真に収めて、先を急ぐ。

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 小高い団地の西側には永慶寺川という小さな川が流れているのだが、ここは貝塚の存在が示すように、かつては入り江であったが、次第に花崗岩が風化した真砂土が堆積して陸化した所である。筏津、水口、鯛ノ浦などという地名がその名残をとどめているが、江戸期から明治、大正期に地元の有力者たちの干拓事業によってさらに陸化が進んた低地である。陸地となったとはいえ、現在も台風や集中豪雨などでは浸水の心配が絶えない地域でもある。最近宅地化が進んでいるが、古い地形を知っていれば、ここに住居を構えることは控えるに違いない。

 それはさておき、西国街道はこの川沿いよりやや西側の山裾の小高いところを通っている。 西国街道へは新幹線の高架をくぐって、永慶寺川にそって小学校のほうへ歩く。 川沿いを歩いていると、ぼしゃぼしゃと川の中を動くものを見つけた。目をこらしてみると、大きなクサガメではないか。周りを見るとさらに2匹の亀が岸辺で甲羅干しをしている。長閑な光景に気分もよくなる。甲良長30センチはあろうかという大きな亀である。かつてオオサンショウウオがいた川だからこの程度では驚かないが、なんとなく得をした気分になる。

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 昨日の雨も上がり、日が差してきて暑い。が、やや強めの風が吹いており、心地よい。まさに風薫る五月である。
 新興の住宅地を抜けて、歴史の散歩道に入る。一部は拡張されてその趣はないものの、少しばかり行くと、昔の街道とは思えない田舎道が現れる。これが西国街道である。

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 街道の法面には薄青色のオオイヌノフグリマツバウンランが咲いている。その先には石垣が築かれており、三槍社という社がひっそりとたたずんでいる。いつ来ても手入れが行き届いているのは、地元の人たちの努力がしのばれる。

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 さらに行くと、街道の左手(東側)には新幹線の高架越しに宮島が見える。このあたりはアラカシやツブラジイ、ヤブツバキなどの常緑広葉樹が優占する植生帯であるが、戦後の食糧難を解消するためにタケノコの缶詰用に孟宗竹を植栽したという。現在ではその事業も消滅し、残されたタケが森林内へ侵入し、タケ林へと変貌している。タケの枯れ葉が風に吹かれて舞っている。竹秋(これは陰暦3月のころというから少し遅い)か。

西国道のたりのたりと竹の秋-写楽

黄金色の竹の葉が路傍を覆っている。道はまっすぐ南へ伸びている。

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 日陰のない畑道からうっそうとしたカシの森へと道は続く。路傍のエノキには若い実が膨らみ始めている。このあたりの森は人家に接しているので、植栽種も混じり込んでいる。日当たりのよい林縁には、シャリンバイの花が満開であった。ヤマグワは、まだ未熟な果実がたわわに実っている。

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 道は突然、舗装道路に。そしてそこには鮮やかなオオキンケイギクの群落が。
在来種と外来種が混在している。
 美しいという基準で植栽される植物に罪はないが、大いに考えされられる風景ではある。

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 帰りにちょいとドラッグストアに寄り道して、頼まれていたドライイーストを購入して帰宅。およそ1時間強の散歩でした。