生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

くまがしの里とメガソーラー

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正面が葛城山、右手には信貴山、遠くの山並みは吉野の山並み

 小高い丘の上にたつ宿舎の窓からは、黄昏の染まる空に遠く吉野の山並み、そして近くにはなだらかにしてひときわ大きな葛城山が目に飛び込んでくる。よく目をこらすと、優美な葛城山の手前には二上山、その間に金剛山の山頂を望むことができる。そして眼下には夕闇に沈み込んでいく盆地に現代的な町並みが広がっていて奇妙な調和がなりたっている。ここは奈良県生駒郡平群町である。 大阪のベッドタウンとして近年、宅地開発が進み、かつての里の風情は大きく変貌しているに違いないが、それでも町を取り囲む山林がかつての面影を偲ばせるものとなっている。聞けば、平群町では「くまがし」なる言葉をシンボルとしているのだという。講演会場となった市民ホールも「くまがしホール」というし、町のあちこちでくまがしの文字を観る。
 くまがしは熊樫のことで、おそらくシラカやアラカシの巨樹のことを指しているのだろう。おそらく平群盆地を取り巻く山地の至る所に樫の巨木が点在していたことに由来するのだろうが、単に樫の巨樹があったということではなく、この巨樹は土石流などの災害から山裾に暮らす住民を護ってきたという事実が神格化されたものなのではないだろうか。
 このたび、平群町を訪れたのは、「平群のメガソーラーを考える会」のお招きで、生態学的な視点からメガソーラー計画の問題点を考えるための講演をすることになったからである。講演までには少し時間があるので、現地を案内していただいたのだが、現場周辺の細い道を車で走るその車窓から見える風景、小さな河川沿いに開かれた棚田が多いことに少々感動したと同時にあることに気がついた。平群町周辺(生駒山系)の土質は花崗岩を母岩とする真砂土で、これは私のくらす広島地方とおなじである。つまり、土石流が生じやすい土質なのだ。おそらく平群盆地周辺では、繰り返し繰り返し土石流が発生し、大量の土砂を運んできたのであろう。それを利用して田畑を開き美しい棚田の風景を生み出したのに違いない。土石流は確かに恐ろしい災害ではあるが、反面そのおかげで田畑を切り開くこともできたのである。自然の驚異と恩恵、かつての人々の暮らしはその価値を十分知りつつ、自然を恐れ敬ってきたのであろう。こうした地形をよく眺めてみると、斜面全体が崩落しているわけではなく、崩れることなく残る小尾根や断崖にはカシの巨樹が生育していたと思われる。大地にしっかり根を張り、斜面崩落を防ぐかのようにそそり立つクマガシと呼ばれる巨樹は畏敬の念をもってあがめられたに違いない。

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 平群の美しい地形と風景は人と自然との相互作用で形成された風景であり精神世界であり、文化財そのものではないだろうか。そうした視点から見ると、メガソーラー計画はどのようなものなのか。技術の横暴さや資本の横暴さが目立つだけの事業ではないのだろうか。少なくとも地元の暮らしに厄災をもたらすことはあっても恩恵をもたらす存在ではなさそうだ。 自然を破壊し、人の暮らしを支えてきた生産性を奪い、持続不能な経済成長を成し遂げる幻にどのような意義があるのだろうか。ここは幻ではなく「まほろば」がふさわしい。

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大きな山塊が葛城山


 講演翌日の朝
 霞たなびく平群盆地と秀麗な葛城山系の景色にであって、その感を一層強くした。
 今日は、斑鳩の里を散歩して帰広するということで、この地の歴史に詳しいOKさんに案内していただいた。

 講演でいかほどのことを伝えることができたかは定かではないが、工事が一旦停止されている現状から、そのままメガソーラー計画を中止へと追い込み、傷ついた跡地を住民のための豊かな森づくりへと発展していくことを切に願っています。