生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

Web博物館ー細見谷渓畔林1ー生物多様性のホットスポット・

 

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 1992年4月中頃だと記憶している。ツキノワグマのレテメトリー調査をしていた米田さんから誘われて、セスナ機に乗ったことがある。1時間のフライトで一人10000円。米田さんの調査費節約のための協力フライトである。広島県西部の西中国山地上空を飛んでクマに装着した発信器の電波を受信する目的のフライトである。協力者は私と杉島さんの二人、後部座席から景観を観ようという訳で搭乗したというわけだ。その当時はまだ、細見谷渓畔林はほとんど知る人もないようなところだったが、私にとっては特別な場所であった。1977年宮島のニホンザルの行動・生態の勉強をするために埼玉から広島へやってきたのだが、その植生の違いにとまどっていた。宮島の餌付けされたニホンザル以外にも野生の哺乳類の実態を知ろうと、暇を見つけては、大型哺乳類の分布調査を目論んでいた。そしてたまたま十方山林道に車で立ち入ったときのことである。「ここが広島?」という驚きである。林道は水浸し、河川沿いには巨大なサワグルミやトチノキミズナラやブナ。広大な渓畔林が広がっていたからに他ない。 いつかはここが調査フィールドになるかもしれにないという漠然とした予感がしたのである。が、その機会もないまま時間は過ぎた。そんな時だ。この渓畔林を縦貫する大規模林道計画が具体化し始めたのである。突然、反対運動の渦中に投げ込まれたのもあるいは必然だったような気もする。

 運動のいきさつは別の機会に譲るが、野外博物館シリーズ「細見谷渓畔林」の連載を始めるに当たって以前寄稿した雑誌「旬游」の記事を紹介することでその概要を伝えておこうと思う。

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左手の直線上の谷が細見谷渓畔林 山の神から水越峠(南西から北東)を望む

生物多様性ホットスポット・細見谷渓畔林

 島根・山口県境に近い廿日市市吉和の西中国山地国定公園の一角に細見谷渓畔林という一風変わった森がある。 渓畔林とは文字通り、渓流に沿って生育する川辺林のことである。水が豊富な渓畔林にはサワグルミやカツラ、トチノキ、ホウ、シナノキ、イタヤカエデといった多様な樹種が山腹から広がるブナやイヌブナと混生している。多様なのは樹種だけでなく、稚樹から樹齢数百年を越える老齢木まで樹齢もまた多様である。樹種と樹齢の多様性は、生きものたちの暮らしの場の多様性でもある。

 この渓畔林という林は、北海道や東北地方では特に珍しい存在ではないが、こと西日本となると話は別だ。特に中国地方は、古代から製鉄、製塩、製陶などが盛んで、その燃料となる薪や炭が大量消費されたために、原生的自然はほとんど残っていない。中でも渓畔林は徹底的に破壊され、残存しているのは琵琶湖以西では京都府南丹市美山町由良川源流域の芦生原生林とこの細見谷渓畔林くらいのものである。しかも、この細見谷渓畔林は長さ約5Km 幅100-200mほどの氾濫原を有する国内有数の規模を誇る渓畔林なのだ。

 渓畔林が生物多様性に富み、高い生産力を有しているのは陸域と水域の生物が互いに助け合うという相互作用が働いているからだ。山の斜面から川へと移り変わる部分を生態学ではエコトーン(移行帯)と呼んでいる。このエコトーンには様々な形で水が存在している。地下を静かに流れる伏流水、その伏流水が湧出してできる池(止水)やその周辺の湿地、さらには緩やかな表流水や急流など、様々な形で一年を通じて存在する。

 そのためハコネサンショウウオ(分布の西限)やヒダサンショウウオ(分布の南西限)、ブチサンショウウオの3種の類が同所的に生息するなど、両生類を筆頭に多くの水生昆虫類の博物館のような場所となっている。

 その水源は大量の雨と雪である。特に雪は重要だ。細見谷は知る人ぞ知る豪雪地帯である。例年だと12月中旬から翌年の4月中旬までの5ヶ月ほどは雪に閉ざされている。厚く積もった雪のおかげで細見谷川は夏の渇水時にも涸れることなく清冽な流れを維持し、夏場の水温の上昇と渓畔林内の気温上昇を防いでいる。

 しかしながら水は恩恵ばかりとは限らない。大雨でも降れば河川は氾濫し、氾濫原内部で河道が変わることも珍しくはない。サワグルミは洪水によって破壊された部分に真っ先に根を下ろす樹種である。それに対して、トチノキやカツラは比較的安定した水辺でゆっくりと成長し、数百年以上もの年月を経て巨樹となる。安定という言葉は渓畔林には似つかわしくない。破壊と再生の繰り返しが渓畔林の特徴の一つとも言える。こうした動的環境が実に多様な環境を作り出しているということだ。言い換えれば、渓畔林は生物の暮らしの場が多様であるということを意味している。

 細見谷渓畔林を貫く十方山林道(砂利道)を歩いてみると、真夏でさえその空気がしっとりと涼やかなことに驚く。

 春、雪解けを待ってヒキガエルが目覚め、渓畔林のあちこちの水たまりに真っ黒なオタマジャクシが泳ぎ始める。それより少し遅く、初夏の気配が感じられる頃、水たまりに伸びた枝にモリアオガエルの白い卵嚢(らんのう)が目につくようになる。そして夏ともなれば、木漏れ日を浴びてミヤマカラスアゲハの集団が林道のあちこちで吸水しているのに出会う。そして実りの秋。秋は渓畔林に暮らすツキノワグマにとって、大変重要な季節である。越冬や出産を控えて、十分な栄養を蓄える必要があるからだ。実はここにも陸域の水域の生きものたちの相互作用の例が見られる。

 秋にクマはブナやミズナラのドングリが最も重要な食糧だといわれている。確かに大量に実るドングリはクマにとって重要な食糧に一つである。が、一つに過ぎないのも事実だ。クマはドングリよりもサルナシやウラジロノキの甘い果実のほうを好んで食べる。栄養的にもドングリよりフルーツのほうが優れている。しかしそれより優れた食糧、それがゴギやアマゴといったサケ科の渓流魚なのだ。あまり知られてはいないが、越冬と出産を控えたツキノワグマにとって栄養価も高く消化吸収も格段に優れている渓流魚は極めて重要な食資源である。その渓流魚は夏の間に、川面に落下してくる葉食性昆虫を主たる食糧資源としている。渓流魚は実に食糧の6-7割をこうした陸上の虫に依存しているのである。つまり、夏、大量にあるイモムシは川の中に魚としてストックされ、それが秋になってクマの食糧となっているということだ。陸域と水域での見事な循環の例でもある。こうした関係はクマだけでなく、ホンドイタチやタヌキ、アナグマなども秋には魚をあさっていることがわかってきた。

 細見谷渓畔林に暮らす多くの生きものたちは互いに複雑な関係を構築し、支え合って生きている。こうした関係構築過程こそが「進化」と呼ばれる現象なのだ。つまり細見谷渓畔林は、生きものの「進化」の場そのものなのである。

 細見谷には確かにすばらしい景観が残っているが、それは風景として美しいというより、生物多様性の反映としての景観のすばらしさにあるのだろうと思う。

 

以後、随時細見谷の自然を紹介していきます。