生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

Web博物館ー細見谷渓畔林3  渓畔林昔話

 細見谷渓畔林は生物多様性に富む貴重な渓畔林であることに間違いは無いのですが、しかし最近の状況を見ていると大分劣化が進んでいるように見えます。一口で言えば生きものの気配が年々薄くなっているということです。生物量(バイオマス)の系統的継続的なデータがないので経年変化の量的な比較ができません。しかしこれまで機会あるごとに訴えてきたように、生物生産の劣化は紛れもない事実なのです。

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黒滝山の周辺(細見谷川左岸)は、かなり人工林に置き換わってしまっている

 今回は、大面積皆伐が行われる前の豊かだった細見谷を知る山崎求さんから聞いた話を紹介します。かつての細見谷周辺の森の様子が少しでも伝われば幸いです。

 山崎さんは旧佐伯町在住で1926年生まれ、長年佐伯町議会議員を務められた方です。戦後まもなく農作業の傍ら、県西部地域で伐採作業にも従事した経験をお持ちの方です。

これまでもいろいろな話を伺ってきましたが、今回は山仕事に関連した部分を手短に紹介します。

 「私は主に、冠山周辺、六日市へ通じる八郎林道や匹見が主な仕事場。その後細見谷にも入りました。細見谷で伐採の作業に加わったのは、昭和32年ごろですかね。十方山林道が開通した後ですから。まだチェーソウが普及する前で鋸(のこぎり)で切り倒していた頃の話です。」

その頃の細見谷の森は今とはどのくらい違うんですか?

「そりゃあ、全然違いますよ。自然林の二三人で抱きつくような大きな樹が至る所にありました。その中で、これはと思うような立派な木を選んで伐採したもんです。だから伐ったあと、山をみてもどこを切ったのか見分けがつかなかった。最近は皆伐でしょう、ひどいもんですよ。山を丸裸にしてしまうんですから、あれじゃ生きものも住めんし、第一水が涸れてしまいましょ。当時は、皆伐なんてしません。すべて抜き伐り(択伐という)ですよ。ブナだったりセンノキ(ハリギリ)だったり、用材になりそうないい樹を選んで、それを切り倒し、。六尺八寸に玉切りにして木馬(きんま)で運び出したものです。太さは三尺(約1m)ほどのものですから、玉切りにしなければとても動かせるものではありません(このサイズの原木重量は1トンを超える)。木馬とは、一口で言えば木でできたソリのようなもので、5ー8センチほどの枝を山道に線路の枕木のようにおいて油を塗り、滑りやすくしておいて、その上を木馬を滑らせて人力で玉切りにした木材を運ぶものです。平坦な所はまだいいのですが下りになると放っておけばスピードが出すぎて成業できず、大事故を招きます。だから下り道はワイヤーでブレーキを掛けながらの命がけの仕事でしたよ。

やがて時代がたつと、木馬ではなく索道とトラックを使って搬出するようになった。

それが、30年以降、チェーンソーが普及してブナなどもパルプの原料としてとして売れるようになると、細い木もみな切り出したもんです。むちゃくちゃですよ。あっという間に山は丸裸になった。こうした皆伐は昭和40年代中頃頃まで続きました。」

 さらに話はさらに続く

「朝早く出かけるときなどは、茂みからガシャと音がしてクマが出ましたね。たくさんいましたよ。他にも鳥のように飛ぶのがいましょ、ムササビかモモンガですかね。木を切ると何故か巣穴から出て人間のほうへやってくるんですよ。だんだん済むところが狭くなって残った森に集まってくるんですね。」

 「それでも斜面の樹は切っても川筋は残しておいた。それば皆伐するようになっても伐った痕が見えないようにしたものです。尾根と川筋は残した。そこを伐ってしまえば山が崩れますからね。それに見栄えも関係しているのかも。とにかく外からは見えないように伐っていましたよ。下山林道ですか、昭和50年代に入ってから、林道をつけて細見谷の周辺を皆伐するようにしたのだろう。」

「ゴギやヒラメ(アマゴ)もたくさんいて、違法だが毒をまいて獲っていた、それくらいいた。飯場では、酒のつまみやご飯のおかず用に、たくさん獲って、火であぶって保存食としたもんです。」

クマは魚を食べてましたか。

「ええ、中道の下の方(小瀬川の支流)では川へ降りて魚をとるクマが多かった。秋の終わり頃、ゴギやヒラメ(アマゴ)の産卵の時期の話です。むかしは当たり前の話ですよ。それとクリですね。佐伯町から吉和にかけて、クリの林が続いていたんです。佐伯からは虫所を通っていくのが主なみちです。近道ですから。そのクリは枕木として切り出された。大正時代から昭和の初め10年ころでしょうか。ずいぶんたくさん枕木を出荷したものです。戦中も枕木をつくって馬を浸かって運んだんです。クリが消えたのはパルプ、昭和30年以降ですね。そうなると10センチに満たない細いものまで切り出したもんです。クリタマバチというのは知らないですね。

中道から飯山に掛けて、羅漢温泉にかけてアマゴを食べるクマがいることは知られていたし当たり前のことで危険視はしていませんでしたよ。クマがいるから山が恐ろしいということはない。クマがいれば音を出しさえすればクマが去って行きますし、恐ろしいなんてことは全くないです。」

川の状況は昔はどうでしたか。

「川は本当に自然のままで、森も自然林ですから水がきれいでおいしい、甘いんですね。ただスギ林になってからの川の水はおいしくないのです。スギ林になってからは、ワサビもだめになりました腐葉土もなくなり栄養は無くなるし、病気もでてほとんど全滅したんです。クリ林の上部には立派なクロブナ(イヌブナ)の林があったんですよ。本島に立派なブナの森でしたよ。クマの爪痕がそれはたくさん残っていたものです。新しいものも古いものもたくさんありました。」

「サルはいなかった。大野にはいたんですがね。明石から宮内にかけてはサルがいるんですが、玖島や佐伯町にもいたんですが、奥にはいませんね。」

という具合にとりとめも無く話は尽きない。体系だった話ではないが、一つ一つのエピソードは事実に面白く示唆に富んでいる。つまり、自然の豊かさの基準が世代を経るごとに低くなっているということだ。   

 特に自然の保全に関わる研究者は自分の知っている自然が基準ではないということに十分気をつけなければなければいけない。環境が変われば当然、暮らしも変化する、食性だって例外ではない。クマは植物質に偏った雑食生だから魚類は利用しなかったという学界の定説もあやしい。利用できる環境が失われたために「利用できなくなる」ことと「利用しない」こととは全く意味が違うのだ。

 クマに限らず、野生鳥獣と人間の関係のあり方を根本的に考え直す必要がある。

 

 

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1979年頃の細見谷の伐採痕、この頃はすでに皆伐事業は終了していた。

 2000年以降、ツキノワグマの生態調査と渓畔林保全活動のために足繁く入山してきたが、細見谷川左岸、つまり十方山系の斜面は大分スギ、ヒノキの人工林に置き換えられてしまっていた。私が広島へ来たばかりの当時はまだ植栽されたばかりで、細見谷へ入る前の林道は乾燥がきつくほこりだらけの道行きだったことを覚えている。それが谷底の渓畔林域に入ると、林道には水が流れるほどの湿地で、大きなサワグルミの樹が印象的であったがそのことは、すでにブログで述べたとおりである。

 細見谷の渓畔林はすんでの所で破壊を免れたのだが、ブナが残る細見谷川右岸の森を歩いてみると、所々に伐採時の痕跡が残っている。もちろん林道沿いには数カ所、造林小屋跡が残っていて、拡大造林事業のかさぶたともいえる傷跡となっている。

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 この2枚の写真はいずれも細見谷川右岸に残されていた伐採事業の痕跡である。索道用の補助ロープをブナの幹に掛けたまま放置したのであろう。やがてブナの成長とともにロープは20年ほどの年月をかけて樹木内に取り込まれたものだ。

 下の写真はトチの巨木に巻き付けられたワイヤーだが、トチノキの生長が遅いのでまだ完全にはワイヤーは取り込まれてはいない。

 細見谷渓畔林の上部斜面には今でもこうした伐採事業の痕跡が生々しく残っている。皆伐後の人工林を今後どのように、生物多様性に満ちた元の森林植生に戻していくか、知恵のだしどころである。

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生き残った本来の景観(森林植生)