生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

北九州1泊2日の旅 その1吉野ヶ里遺跡

  弥生も末も二日、春の陽気に誘われてり久しぶりに吉野ヶ里遺跡へ行ってみようと思った。縄文遺跡しかり、弥生時代しかり古墳時代までの古代遺跡には何故か惹かれるものがある。巷では何か新しい発見があると、すわっ、邪馬台国か?となりがちな古代史である。しかし残念なことに邪馬台国論争はほとんど我田引水の学説ばかりで、どうも眉につばをつけながら学説を拝聴することになる。

 邪馬台国論争も嫌いではないが、私のもっぱらの興味は、この吉野ヶ里遺跡の立地にある。遺跡の北には背振山地が迫り、南には何本もの河川(筑後川水系)が走る平野が広がっている。遺跡全体は氾濫原より少し高い台地に広がっていて、周辺は湿地で稲作に適していたのだろうことが推測できる。自然の生産力が大変豊かな土地に立地していることを改めて実感することができた。このことはあるいは「ブラタモリ」で取り上げていたような気もする。とはいえ、吉野ヶ里遺跡弥生時代(BC3世紀)から古墳時代(AD3世紀)までの約600年にわたる断続的な遺跡群なので、その歴史過程を踏まえるとかなり煩雑になる。その歴史を知るには、同遺跡公園資料館で販売されている「弥生時代吉野ヶ里-ムラからクニへ-(2023年 佐賀県文化財課 文化財保護・活用室編集)を参考するのがいい。

 初めて吉野ヶ里遺跡を訪れたのはもう30年以上も前のことだ。発掘作業が続いていた当時、遺跡周辺はまだ整備もされておらず、炎天下、砂ぼこりと汗にまみれての見学であった。ために遺跡周辺の露店では日よけのための菅笠などを売っていて、同行した父親も購入したほどである。このたび訪れて驚いたのはまったく当時の面影もない立派な公園に生まれ変わっていたことだ。真夏の強い日差しはなく、広大な園内には無料のバスも運行されていて春の一日、のんびりと古代に夢をはせながら散策できるようになっていた。

 遺跡公園内には資料館もあり、弥生時代の暮らしの一端を知るための資料が展示されている。また園内にはヤマグワ、コウゾといった丈夫な繊維を有する樹木が植えられている。なぜこの樹種が植栽されているのか、その本当の理由はわからないが、おそらくこれらの樹種が食料や生活資源として利用されていたことと無関係ではないのだろう。また当時から、カイコを飼って、絹を生産していたようではあるが、これらは庶民の手の届かない高級品だったに違いない。絹(生糸)の染色にはアカニシなどの貝類から抽出された色素(紫)を利用していたことが資料館の展示から知ることができる。一方、庶民の衣服は様々な草本類やコウゾなどの植物繊維を利用していたのだろうが、その辺の事情はあまり詳しい解説がなかった。庶民の暮らしを再現するための資料は権力者のものに比べて少ないということも関係しているのかもしれないが、庶民の私としては当時の暮らしぶりこそが興味がある。

 もう一つ目を引いたのが、死者を埋葬する甕棺式墳墓である。甕棺式墓列群が発掘展示されている。埋葬の仕方は、まず2-3m四方の穴を掘り、短辺の壁に円形の横穴を穿つ。この穴は入口から奥に向かって傾斜しておる、そこに甕棺を入れ込み、死者を頭を手前にして仰向けに安置する。そしてもう一つの甕棺を入口合わせるようにかぶせ、継ぎ目を粘土でふさぎ、穴を埋め戻す、という風に埋葬する。つなぎ合わせた甕棺の形はちょうど、カイコの繭のようになる。展示されている甕棺の内部には、銅剣が一つ収められている。これが何を意味しているのかは展示から知ることはでき名が、全体の印象としてはカイコの繭を連想させる。死者があの世で蘇るさいに眉を内側から破るための剣のように思えるのだが、これは確たる証拠があるわけではない。妄想の類かもしれないが、多くの甕棺に副葬品として埋葬される唯一の物だけに、何かそれなりの意味があるに違いない。

 古代遺跡の公園としてきれいに整備されているのだが、その分、時代感が薄れてしまっているようなのが、少し残念といえば残念だ。例えば、園内の地面はきれいに舗装されており大変歩きやすいし、少々の雨でも歩きやすい。おそらく見学者への配慮と遺跡保存の観点からなされたものであろう。それでも地面の質感や凹凸、埃っぽさや雨の日のぬかるみ、そこかしこに生えているであろう草や灌木などが生活実感を再現するには欠かせない要素かもしれないと思うのである。さらに欲を言えば、市での交易品や生産物、生産工程などを体感できるような工夫(勾玉や銅鏡、火起こしや土笛などの製作体験などはあるが)ほしいし、環濠集落周辺に湿地には水田、高台には畑地や桑畑などの復元など、もう少し庶民の暮らしが実感できるような環境があればとてつもなく魅力的な施設になるに違いないと感じた次第である(実はここに保存と利活用との相反する問題があって、悩ましい問題なのだが)。それはさておいても十分面白い施設であることに違いはない。

遺跡内に見られる水田ー弥生時代の水田を再現したものか?