生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

北九州1泊2日の旅 その2 武雄温泉-波佐見町

 吉野ヶ里遺跡公園の見学を終えて、佐賀市内で夕食をとり、武雄温泉を目指す。嬉野温泉という選択肢もあったが、より落ち着きのある武雄温泉に宿泊することにした。日もすっかり暮れたころに到着。宿は多喜男温泉尾ランドマークとなっている楼閣からすぐの街角にある。コロナ禍以降は宿泊のみで営業している老舗の「京都屋」旅館。チェックインをすまし、部屋へと向かう前にロビーに展示されている大正ロマンを感じさせる古い貴重なオルゴールやレコード、西洋の人形をはじめ様々な調度品を一渡り眺めてみる。落ち着いた雰囲気が日常とは異なる世界へのいざない旅愁を感じさせる。

 用意されていた部屋は4人まで泊まれる和室。どういうわけかこの部屋だけは他の部屋と異なりドアではなく和風格子の引き戸となっている。格子戸玄関を入り上がり框の襖を開けると6畳の間となっている。一瞬狭いと思ったのだが、ここは玄関の間で、右手が客間、左手は水屋となっている。客間の襖を開けるとなんと、22畳もの広さがあるではないか。家族3人には十分すぎるほど広く落ち着いている。

 一休みして温泉に。武雄温泉の泉質は弱アルカリ(いわゆる美人の湯)につかって、疲れを癒し、翌日に備える。広い湯舟を一人で独占状態なのがなんとも贅沢。

 翌日は雨模様。一雨来る前に朝風呂を済ませて、昨夜チラ見した楼閣を見学に行く。

この楼閣は唐津出身の建築家、辰野金吾の設計による竜宮づくりで、武雄温泉新館とともに国指定重要文化財にしてされているという。地元の宮島や江の島神社、下関の赤間宮にもあるが、あの独特な形状は、何かお宝がありそうな、別世界がありそうな気がして、なんとも人を惹きつける魅力がある。

 朝9時過ぎに訪れると、なんと、この楼閣の内部を見学できるとのこと。朝9-10時限定で解放しているというので、登楼する。靴を脱いで急な階段を上がるとボランティアのガイドさんが待ち構えていた。 この楼閣の売りはなんといっても格天井の四隅(東西南北)に彫られている卯(東)、午(南)、酉(西)、子(北)の四つの透かし彫りである。

 辰野金吾といえば、東京駅丸の内口の駅舎の設計者として有名だが、駅舎の一部は戦災で失われてしまった。そして数年前に駅舎の再生されて今や観光スポットとなっているという。丸の内南口のドーム天井には、八角形のそれぞれの角に丑‐寅(北東)、辰-巳(南東)、未-申(南西)、戌-亥(北西)の八つの十二支がレリーフも再生された。何故八つなのか、残りの四つはどこにあるのか?ということで、東京駅から武雄温泉に問い合わせがあったとのこと。 その結果、東京駅と武雄のこの楼閣を合わせると十二支が完成するという事がわかったという。楼閣の二階の窓ガラスも波を打つ古いもので龍宮城もかくやとは思わないが、水底から見る景色のようで面白い。 この楼閣とその奥に建つ新館(現在は資料館となっている)はともに国の重要文化財となっているという。

 新館にも足を運んで、大正から昭和にかけての賑わいを想像してみた。思いがけなく武雄温泉を楽しむことができた。

 見学を終える頃には雨粒が落ちてきた。遅い朝食を求めて、次なる見学地へ向かう。

武雄温泉楼閣見学で教えられた、クスの巨木求めて武雄神社へ向かう。樹齢3000年とか言われるが、ちょっと盛った感じがする(せいぜい500-800年くらいか)。とはいえ、十分な古木である。幹の大半が枯れて失われているので樹冠は大きく広がってはいない。もともとの幹は腐って大きなトンネル状の洞(うろ)になっていて、そこに祠がまつられている。このような古樹にできる洞に祠をまつる例は全国各地にあるようだ。神の依り代として敬われてきたのだろう。それは神道(政治的宗教)というよりむしろアニミズム(自然崇拝)の系統を受け継ぐもののように思える。自然への畏れや敬いといった感情が共有された精神的文化的遺産と見るべきものだろう。もちろん神道にもこのアニミズムとの深いつながりはあるのだろうが、権力と親和性のある神道と権力とは結びつかないアニミズムとの違いを認識しておきたい。武雄にはこのクスを含めて、3本のクスの巨樹があるというが、この度は天候も思わしくないので、このクスだけを拝んできた。

 突然雨が激しくなってきたので朝食のために近くの武雄図書館へ。2013年開館したこの図書館は民間委託したことで名をはせ、多くの議論を呼んだ。図書館という公共の場であるべき文化施設が民営化され利潤追求が主目的となることへの批判が相次いだのである。この問題については、図書館問題研究会の発した声明に詳しい事情が記されている。https://tomonken.org/

 訪れた第一印象は館内の雰囲気はよい。ただしその機能やシステムに関しては評価する材料を持ち合わせているわけでなない上に、基本的にはサービスを享受する住民が判断することではあるが。全国どこでもこの方式がいいとは思わないし、営利目的の客寄せ施設に堕すことは認められないが、武雄という地方都市の文化施設の在り方としては、改善すべき問題を抱えつつも一定の評価はできるのかもしれない。館内で、コーヒーを飲みながらしばしの間、過ごしてみると見掛け倒しの感はあるものの開架式書棚のレイアウトに圧倒される。ドラマ仕様のようだが、多くの利用者がいて静かな中にも活気が感じられる。

朝食も済ませたところで、今日のメインエベント、長崎県波佐見町での焼き物探索。有田、伊万里など磁器の産地として知られているが、その陰というか黒子として波佐見焼はそれほど有名ではなかったが、近年、注目を浴びているそうな。有田や伊万里鍋島藩御用達の高級品であるのに対して、大村藩波佐見焼は主に日常遣いの食器がメインだったようだ。白をベースに青の幾何学模様がモダンで日常使いの食器としては申し分ない。固くかつ軽いので使い勝手がいい。中にはアンコウやヒラメ、ジンベイザメなどをユーモラスにデザインしたものや、マンドリルハシビロコウなどのアニマル柄も若者に人気のようだ。我が家は具象ではなく抽象的なデザインのものをたくさん購入。何しろアウトレット品が格安で手に入るのだから、購買意欲が増すというもんだ。  

 波佐見町は本当に地方の小さな町ではあるが、陶磁器を生産する窯業を基幹産業として活気に満ちていた。これこそが本来の町のあり方なのだと痛感した。今どの地方都市へ出かけて行っても、かつて賑わっていただろう商店街は人影まばらシャッター街となっている。そんな状況を打破しようにも、出てくるアイデアは一時しのぎのイベントばかり。もっと地に足がついた生業を本気で育てないと地方の自治体は消滅の憂き目を見るに違いない。農業でも漁協でも大規模化、工業化を目指しても将来はないだろう。ましてインバウンド頼みの観光開発など論外である。一時的に景気がよくなったとしても地元の暮らしを破壊するという弊害が大きく、やがてこの路線は頓挫するのが関の山ではないのか。持続可能で安全な食料生産を基本としたコミュニティの再評価が必要なのではないだろうか。などとぼんやりとした考えが頭をよぎる1泊2日の旅であった。

 最後に帰り道に立ち寄った稗ノ尾の石橋も素晴らしかった。九州各地には立派な石橋が残っているのも面白い。

 

北九州1泊2日の旅 その1吉野ヶ里遺跡

  弥生も末も二日、春の陽気に誘われてり久しぶりに吉野ヶ里遺跡へ行ってみようと思った。縄文遺跡しかり、弥生時代しかり古墳時代までの古代遺跡には何故か惹かれるものがある。巷では何か新しい発見があると、すわっ、邪馬台国か?となりがちな古代史である。しかし残念なことに邪馬台国論争はほとんど我田引水の学説ばかりで、どうも眉につばをつけながら学説を拝聴することになる。

 邪馬台国論争も嫌いではないが、私のもっぱらの興味は、この吉野ヶ里遺跡の立地にある。遺跡の北には背振山地が迫り、南には何本もの河川(筑後川水系)が走る平野が広がっている。遺跡全体は氾濫原より少し高い台地に広がっていて、周辺は湿地で稲作に適していたのだろうことが推測できる。自然の生産力が大変豊かな土地に立地していることを改めて実感することができた。このことはあるいは「ブラタモリ」で取り上げていたような気もする。とはいえ、吉野ヶ里遺跡弥生時代(BC3世紀)から古墳時代(AD3世紀)までの約600年にわたる断続的な遺跡群なので、その歴史過程を踏まえるとかなり煩雑になる。その歴史を知るには、同遺跡公園資料館で販売されている「弥生時代吉野ヶ里-ムラからクニへ-(2023年 佐賀県文化財課 文化財保護・活用室編集)を参考するのがいい。

 初めて吉野ヶ里遺跡を訪れたのはもう30年以上も前のことだ。発掘作業が続いていた当時、遺跡周辺はまだ整備もされておらず、炎天下、砂ぼこりと汗にまみれての見学であった。ために遺跡周辺の露店では日よけのための菅笠などを売っていて、同行した父親も購入したほどである。このたび訪れて驚いたのはまったく当時の面影もない立派な公園に生まれ変わっていたことだ。真夏の強い日差しはなく、広大な園内には無料のバスも運行されていて春の一日、のんびりと古代に夢をはせながら散策できるようになっていた。

 遺跡公園内には資料館もあり、弥生時代の暮らしの一端を知るための資料が展示されている。また園内にはヤマグワ、コウゾといった丈夫な繊維を有する樹木が植えられている。なぜこの樹種が植栽されているのか、その本当の理由はわからないが、おそらくこれらの樹種が食料や生活資源として利用されていたことと無関係ではないのだろう。また当時から、カイコを飼って、絹を生産していたようではあるが、これらは庶民の手の届かない高級品だったに違いない。絹(生糸)の染色にはアカニシなどの貝類から抽出された色素(紫)を利用していたことが資料館の展示から知ることができる。一方、庶民の衣服は様々な草本類やコウゾなどの植物繊維を利用していたのだろうが、その辺の事情はあまり詳しい解説がなかった。庶民の暮らしを再現するための資料は権力者のものに比べて少ないということも関係しているのかもしれないが、庶民の私としては当時の暮らしぶりこそが興味がある。

 もう一つ目を引いたのが、死者を埋葬する甕棺式墳墓である。甕棺式墓列群が発掘展示されている。埋葬の仕方は、まず2-3m四方の穴を掘り、短辺の壁に円形の横穴を穿つ。この穴は入口から奥に向かって傾斜しておる、そこに甕棺を入れ込み、死者を頭を手前にして仰向けに安置する。そしてもう一つの甕棺を入口合わせるようにかぶせ、継ぎ目を粘土でふさぎ、穴を埋め戻す、という風に埋葬する。つなぎ合わせた甕棺の形はちょうど、カイコの繭のようになる。展示されている甕棺の内部には、銅剣が一つ収められている。これが何を意味しているのかは展示から知ることはでき名が、全体の印象としてはカイコの繭を連想させる。死者があの世で蘇るさいに眉を内側から破るための剣のように思えるのだが、これは確たる証拠があるわけではない。妄想の類かもしれないが、多くの甕棺に副葬品として埋葬される唯一の物だけに、何かそれなりの意味があるに違いない。

 古代遺跡の公園としてきれいに整備されているのだが、その分、時代感が薄れてしまっているようなのが、少し残念といえば残念だ。例えば、園内の地面はきれいに舗装されており大変歩きやすいし、少々の雨でも歩きやすい。おそらく見学者への配慮と遺跡保存の観点からなされたものであろう。それでも地面の質感や凹凸、埃っぽさや雨の日のぬかるみ、そこかしこに生えているであろう草や灌木などが生活実感を再現するには欠かせない要素かもしれないと思うのである。さらに欲を言えば、市での交易品や生産物、生産工程などを体感できるような工夫(勾玉や銅鏡、火起こしや土笛などの製作体験などはあるが)ほしいし、環濠集落周辺に湿地には水田、高台には畑地や桑畑などの復元など、もう少し庶民の暮らしが実感できるような環境があればとてつもなく魅力的な施設になるに違いないと感じた次第である(実はここに保存と利活用との相反する問題があって、悩ましい問題なのだが)。それはさておいても十分面白い施設であることに違いはない。

遺跡内に見られる水田ー弥生時代の水田を再現したものか?



 

ツキノワグマ問題を考える-真の原因は?

柿の木に登るクマ 2004年

 テレビでも新聞でも今年のクマによる人身被害が頻発しているとの報道が相次いでいる。特にテレビでは同じ画像を繰り返し、視聴者の恐怖心をあおることに腐心しているかのようだ。それに対して、山の実りの不作が原因との識者のコメントが寄せられている。
確かに、堅果類の不作は原因の一つかもしれないが、堅果類の不作は今に始まったことではない。むしろ豊作である方が少ないほうが当たり前なのだ。

 クマの市街地出没は今に始まったことではなく、1970年以降、その傾向が始まり、今日の状況は予想されていたことである。が、環境省自治体も経済効果のない自然保全には目を向けることはなかった。
 広島県では1990年代にクマの中山間地域への出没が顕著になり、それに関するフォーラムが開催されるようになった。そこで一つの解決策として、「実はクマに、材は人に」というスローガンのもと旧戸河内町では、クリの植栽を進めたが、その効果は得られていないようだ。こうした流れの中で、環境省主導で特定鳥獣の保護管理計画が策定され、西中国山地ツキノワグマの保護管理計画は広島、島根、山口の三県が共同して策定された。

 西中国山地ツキノワグマ保護管理計画(現在は管理計画)は西中国山地個体群を対象としており、行政区分を越えて協働することは他の都道府県にはない大きな特徴がある。この計画は、三県のツキノワグマ対策協議会が策定することになっているが、その実質的な議論は、科学部会が担っていることに大きな意味がある。このこと自体は大変いいことなのであるが、しかし限界もある。議論の中身がほぼ「個体数管理」にかたよっており、いわゆるゲームマネッジメント的な議論となってしまっている。

 クマだけではなく、多くの森林棲哺乳類の暮らしの場である森林は、1960年代の大面積皆伐、拡大造林やダム開発、砂防堰堤の設置、河川の護岸、浅海の埋め立てなど開発重視の結果、大きく多様性と生産力が失われてきて今日に至っている。つまり、かつて豊かだった森林は姿を大きく変え、緑色の砂漠のような生きものの暮らしにくい場へと変容してしまった。それに加えて、都市部への人口流出が加わり、過疎地がひろがってきた。その傾向は1970年代にはかなり顕著となり、それは今も留まることなく続いている。

 人が利用しなくなった森林(里山の二次林)や農地(果樹や農作物)のなどの生産物は、野生動物が利用するようになったからで、生態学的には当たり前の現象なのだ。つまりクマの生活域は集落周辺の二次林を中心とした人里近くに集中し、かつての奥山での生息密度は低下している可能性が高い。いわゆるドーナツ化が進行しているのが実態なのだ。

 次の写真は、そんな状況を広島市安佐動物公園の機関誌「すづくり 2022年3月号」に寄稿したものである。

 クマによる人身被害の原因を、個体数増加と猛暑による餌不足という皮相的な捉え方では問題の解決にはならないと考えている。西中国山地ツキノワグマ管理計画を審議する科学部会においても、個体数管理から脱却して、森林生態系-河川生態系ー海洋生態系を含む流域生態系に目を向けた生物多様性とそれに依存する生物生産力の回復を目的とする議論とそれに基づく効果的な対策、すなわち予算の裏付けのある実効ある計画の策定が求められている。それなくしては、クマによる人身被害はクマが絶滅するまで無くならないだろう。

 

タイ旅行の思い出 2 初めてのカオヤイ国立公園

 バスを乗り継いでなんとか無事、宿泊予定のパームガーデンロッジへたどり着いて、腹ごしらえも済んだところで、いざ、カオヤイ国立公園へ。マダムが運転する車で、ひたすら北へ向かって走る。カオヤイとは広大な山というほどの意味らしいが、まだその山は遠くにあり、平原をひた走る。とやがて道は公園入り口のゲート(サウスチェックポイント)にさしかかる。ここで入園手続きをすませて、車はさらに先へ。ここから道は徐々に上り勾配となり、森林地帯を駆け上がる。周辺の森林は日本の照葉樹林とどこか似ていてどこか違っている。時期が雨期でもあったので、湿度の違いは肌で感じることもできた。しかしここまで標高が上がってくると、蒸し暑さはそれほどでもない。むしろ空気はひんやりとしている。夕方近くということもあって、この日は中央ハイウエイ沿いをヴィジターセンタまでをドライブするだけ。広大な公園を南北に貫くハイウエィを走っていると所々にゾウのフンが転がっている。すこし興奮気味になっていると突然マダムが「チャーン」と叫ぶ。道ばたにゾウがたっている。牙はまだそれほど伸びていないの若いオスだ。左耳たぶに大きな破れがある。しばらく野生のゾウに見とれていると、やがてゆっくりと森の中へ消えていった。下見の下見旅の途中で、若いオスのゾウに出会うという幸運に恵まれた。このオスは7年後ににも再会することになる。

 しばらく周辺で痕跡を観察してみると、足跡やフン、なぎ倒された樹木などが見つかった。確かな生活痕に軽い興奮を覚えるが先を急ぐ。もう日が傾き掛けている。

 この日は途中、ヘオ・ナロックの滝に立ち寄ってヴィジターセンタ―まで行って、帰ってきた。雨期のカオヤイ国立公園は厚い雲が低く立て込めていた。今にも大粒の雨が落ちてきそうだ。この日出会えた野生動物は、ブタオザルとホエジカだけだったが、明日のトレッキングでの出会いが期待できそうな予感がした。とはいえ、この時はまだ、その後約10年のカオヤイ国立公園通いが始まることは夢想だにしていなかった。

夕暮れ前に湖畔のレストランで夕食をとり、宿へ。

 

まだまだ、続く。

 





 

 

第3次命の森やんばる訴訟ー証人尋問

伐痕調査風景

 2023年6月9日木曜日、午後2時、福岡高裁那覇支部において表記訴訟の第1回口頭弁論が開かれ、原告側証人として法廷で証言してきましたのでそのときの様子について報告します。

  1. 第3次命の森やんばる訴訟とは

 沖縄島北部のやんばると呼ばれる森林は、本土復帰以後、大規模な林道開設と森林破壊が問題となっていました。詳しいことはここでは述べませんが、本土復帰に際し、沖縄経済振興事業の一環として補助金を投下するための名目事業として、森林開発がその根底にあったということです。私がこの訴訟に関わったのは、第2次命の森やんばる訴訟からですが、この訴訟でも証人として法廷に立ちました。そればかりか現地進行協議という現場視察の案内役まで務めました。この第2次訴訟では、県営林の伐採と林道開設が問題となり、結果的には林道開設も止まり、県営林の皆伐も止まるという、実質勝訴を勝ち得ました。詳しいいきさつは、2015年3月20日付けのブログ「実質勝訴・やんばる訴訟を参照してください。これでやんばるの森林伐採が全てが止まるかと言えばそうではありません。第2次訴訟中に一連の林道開設と皆伐に反対の世論が高まり、それを受けて県営林(国有林の土地を沖縄県が無償で借り受け、管理・運営する森林)の皆伐や林道開設は中止になったものの、その効力は県営林のみに度々まり、国頭村が所有する村有林にはその効力は及びません。そのため以後は村有林の伐採が顕在化してきました。村有林の伐採も補助金漬けの事業ですから、そこに様々な落とし穴があります。第3次訴訟では、かつて造成された土地が利用されずに放置されていた土地を森林へと機能回復させるための事業に関するものでした。この事業自体はそれほど大きな問題を含んでいるわけではないのですが、この事業を故意に拡大解釈したか、元々森林だった所を伐採して、この補助金を受けて植林をするという事例が少なからず存在します。補助金交付の目的は「機能回復」ですから「かつて植林した樹木の生育が不良な土地もしくは耕作放棄地」などでなければこの補助金は利用できません。ところが、立派な森林だった所をこの補助金を使って伐採してしまった例が宇良地区でみつかったのです。そこで住民(原告)は適正な審査をせずに補助金を支出した沖縄県知事に対して、支出した補助金の返還を命じるよう求める監査請求を行い、それが棄却された後に住民訴訟提訴したということです。 

  1. 証人尋問

 さていよいよ証人尋問がどのようなものなのかを体験に基づいて報告します。まず、最初に書記官から証人カードの記入を求められます。住所・氏名・生年月日・年連を記入し、押印をします。これは人定尋問を簡略化することにも利用されます。証人カードとは別に「旅費・宿泊費請求辞退書」、つまり、裁判所は旅費も宿泊費も負担しません、という確認のための書面に署名捺印をして提出します。原告側の要求によって実施される証人喚問なので、こうした経費は原告側が負担することになっているようです。これで開廷まえの手続きは終わり、まもなく第1回口頭弁論が始まります。

 今回の証人尋問は、原告側一人(金井塚)と被告側(県職員)一人で、私への尋問時間は主尋問(原告側代理人からの)30分、反対尋問(県側からの)30分の予定です。

午後2時。3名の裁判官が入廷し、開廷を宣言します。そこで今日は、証人尋問を行うことが告知されます。裁判長に促されて、証人台の前で、証人二人それって以下のような宣誓文を読み上げるよう、もとめられます。

宣誓 良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。(全ての漢字にふりがながふってあります)

 宣誓文の朗読が終わると、証人席にすわるよう促されます。証人席はドラマでもおなじみのように裁判長の真ん前に対座するように設置されています。証人席に着座するとまず初めに証言に際せての注意事項が告げられます。

 「質問をよく聞き質問が終わってから、簡潔に答えること」 「はい、いいえ、」で答えられるものにはそのように答えること。といった注意が告げられ、いよいよ尋問に入ります。

 まずは裁判長からの人定尋問ですが、「先に提出した証人カードの記載に間違いないですか?」「はい」で終了。実に簡単なものです。続いて原告側代理人からの主尋問が始まります。

 法廷での証言などというと、厳かな雰囲気の中で緊張するのではないかと思うかもしれませんが、そんなことはありません。原告側代理人(弁護士)とは長い付き合いでもあり、証人尋問の構成など何度も打ち合わせをしてあります。原告が証人尋問を通じて主張したいことは、補助金が支出された土地が伐採の必要の無い土地、つまり立派な森林であったことを主張するためです。そのこと明らかにして、補助金の支出が違法であったことを立証するのが目的ですから、調査報告書とその解説をした証拠文書(甲71号証)に基づいての質問が主になります。

 まずは、調査者である証人(私)が主体となって実施した調査とその報告書が信ずるに足るものかどうかを裁判官に理解してもらうことから始まります。つまり専攻。経歴などを確認するための質問がそれに当たります。そしていよいよ、具体的な内容に関する質問に入り、伐採された地域が立派な森林で、伐採して新たに植林する必要のない場所であったことを証言することになります。具体的には証拠として提出済みの「伐痕調査報告書」に記載されているグラフや表の見方などを解説し、「樹種の多様性」「樹齢の多様性」、「立木密度(740本/ha」のどれをとってもやんばるにある立派な森林だったことを証言しまた。こうしてあっという間に30分が過ぎ、続いて反対尋問が始まります。どんな質問があるのか楽しみにしていたのですが、反対尋問はたった二つ。

「森林生態学という専攻には何か資格が必要ですか?」「いいえ」ともう一つは記憶に残らないほどつまらないものでした。1分もかからなかったのです。つまり、事実関係については、係争地がかつて森林であったという原告側の主張を認めざるを得なかったのだと思います。つまり事実関係は争わず、係争地を取り巻く地域が造成未利用地手あることを盾に行政の裁量権を認めてもらう戦略に出たのだと推量します。最後に裁判官からの質問がありました。

 裁判官の質問は、「伐採地にかつて利用された痕跡がないとのことですが、なぜそう言えるのか教えてください」といった内容のものだったように記憶しています。それには「かつて人が入植して居住や耕作をしていたとすれば、石垣などで平坦地をつくるのが必須ですが、そのような痕跡が全くなく、斜面を掘削した痕跡も皆無、炭焼き窯などのあとも道路跡も見られない」ことから、未造成地、すなわち自然地形に成立した森林だったというように答えたと記憶しています。

 

 こうして、控訴審の第1回口頭弁論は終了し、9月28日に判決が言い渡される予定となっています。地裁での一審判決があまりにひどいもので、行政の裁量を過大に評価し、原告側の主張を無視したもので、申請した証人尋問もしないままの判決でしたが、高裁での控訴審では、事実か確認のためには証人尋問は必要とのことで行われたものです。首尾は上々でしたが、第1回甲訥弁論直前に裁判長が交代するなど、不安材料はあります。どのような判決が言い渡されるかわかりませんが、原告側が恐れるのは、「事実は原告の主張通りではあっても、規模の点から見ても行政の範囲内」で控訴棄却という判断です。

 だとすれば、補助金支出に関して国が定めた実施要領も県の補助金等の交付に関する規則にも背くことになります。まさに法が有っても無いがごときの裁量権ということになります。

タイ旅行の思い出 1

 今、BS日テレでタイを鉄道で縦断する旅を放映しているのを見て、なんだか懐かしくなった。ここ10年ほどはタイを訪れていないが、これまでに10回ほど通った国である。その最初が2002年9月下旬のことだった。流れる映像と記憶に残る映像に多少のギャップがあって面白い。20年といえば、軽く二昔。日進月歩の今日ではそれどころではない変化が画面を通して実感できる。

 そもそも何故タイへ出かけていったのか? 2002年は事情があって25年務めた会社を辞め、少しばかり暇な時間を持てるようになっていた。そこへ大学の卒論の資料集めと称して、タイ旅行を画策していた娘の口車にのって出かけることになったという訳である。

条件はだだ一つ。カオヤイ国立公園を旅程に組み入れることで交渉は成立。

2002年9月23日から10月2日まで11日間、目的地は、カオヤイ国立公園、スコータイ遺跡巡り、チェンマイでの少数民族探訪を飛行機とバス、鉄道を利用して巡り歩いた。

 その道中記を当時を思い出しながら綴って見ることにする。

第一回は 関空ータイ(ドンムアン空港)―バンコク市内(泊)ー(バス)ープラチンブリ(泊)

まで。

 2002年当時は関西空港を早朝に出発するバンコク(ドンムアン空港)経由シンガポール行きの便があったのでそれを利用しての旅であった。夜行バスで天王寺へ行き、そこから南海電鉄関空まで行ったと記憶している。この便だと午後の早い時間にバンコクへ着ける。ドンムアンからバンコク市内までは普通、タクシーを利用するようだが、鉄道に乗りたくてタクシーの客引きを断った。周りを見渡しても鉄道を利用する人はほとんどいない。駅でバンコクまでの切符をかったのだが、その値段に驚いた。たった5バーツだという。当時のレートは1バーツ=3円ほどだから、バンコクまで一人15円ほどしかかからない。

 写真の右下の欄に5バーツと印字されている。鉄道運賃がこれほど安いのは国の政策として補助金が投入されているからだという。人と物資の輸送は国の義務ということらしい。とはいえ、今日ではハイウエイが整備され車での物資輸送が主流になっている。

 運賃は安いが運行時間の正確さは日本のそれと比べれば雲泥の差がある。時刻表は目安にしか過ぎない。待てども待てども列車は来ない。蒸し暑いホームで待ちくたびれた頃やっと到着。のんびりとした列車旅が始まった。田園地帯を抜け、バラックの密集する町をいくつか過ぎて、列車は終点のポアランポーン(バンコク)駅に到着した。首都のターミナル駅にふさわしい駅舎に見惚れる。改札口があるわけでもなく、広々としたコンコースを抜けると、そこはもうバンコクの市街地だった。

 

 この日は駅近のバンコクホテルに宿泊。翌日はカオヤイ国立公園を目指してのバス旅なので夕ご飯は、タイスキと無難な選択。

 

 カオヤイ国立公園方面のバスは市内北部のバスターミナルから。プラチンブリにあるパームガーデンロッジという(今は同じ名前のリゾートホテルがある)個人経営のこぢんまりとしたロッジへ予約をいれておいた(なんとか使えるインターネットを利用して)。

バンコクからどこ行きのバスに乗ればいいのかわからないが、確か北部バスターミナルの○○番のバスに乗り、ロッジのHPにタイ語で描かれているものをプリントアウトしたものを運転手に見せれば、入り口近くで下ろしてくれるとのこと。タイ語で書かれたものなのでどのように発音するのかも皆目わからず、どうも危なっかしいがとりあえず言われたとおりするしかない。バスターミナルへいって、案内人にプリントを見せると、乗るべきバスを教えてくれた。使い古したポンコツ感満載のバスである。もちろんエアコンなどない。今でこそエアコンの効いた最新型のバスが当たり前であるが、20年前にはこれが普通であった。

 発車前に再度、運転手に印刷物を見せるとOKとの返事。ここから2時間ちょっとのバス旅が始まった。

 雨期がはじまっており、街道沿いの水田はほぼ水没するくらいに水をたたえていた。2時間ほどたったころだろうか。バスは給油のために立ち寄ったガスステーションで驚くべきものを見つけた。

 これがそれだ。慌ててカメラのシャッターを切った。センザンコウの剥製が無造作に柱に掲げられていたのだ。 これも密猟されたものなのだろか、それとも法規制以前に捕獲されたものなのだろうか。よくわからないが、とにかくびっくりな遭遇であった。

 給油を済ませたバスはやがて家並みが続く町中へ入っていく。まもなく目的地らしい雰囲気を感じるが、確信はもてない。バスはランアンアバウトの交差点を右に入る。このあたりから、不安が頭をよぎる。目的地はあの交差点を直進する方角なのではないかという漠然とした不安である。もちろん根拠はない。そこでもう一度、運転手に例のプリントを見せると、オゥ、といってそのあと、OKOKとのジェスチャーをみせる。バスは町中に入ると前方からもバスが。運転手氏は、対向してきたバスに合図を送って、止めると、運転手同士で何やら話をしている。その話が終わると、ここであのバスに乗り換えろという。何人かが協力して私たちの荷物を積み替えてくれた。みんな良かった良かったというような笑顔で送り出してくれた。きた道を引き換えることに、乗り換えたバスはさらに老朽化した車体で、フロントガラスには大きなひびが入っているのがすごい。それでもかなりのスピードで街道を疾駆するのだからすごい。やがて件の交差点へ、そこを右折、つまり予想していた方向へと向かった。しばらくするとバスは止まり、この道を行けば目的の宿だと教えてくれた。私たち二人は、荷物を受け取り、砂利道を200メートルほど歩いて無事宿に着くことができた。

 宿のマダム(数ヶ月前に旦那さんが亡くなったとのこと)が出迎えてくれて、うどんをご馳走してくれた。ワンタンの様な幅広の米の麺(センヤイ)がおいしかった。一休みして、カオヤイ国立公園へ向かうことになるが、今日の話はここまで。続きをお楽しみに。









 





 



 

吉和トラスト候補地探訪

 このところの座骨神経痛に加えて、諸般の事情からフィールドワークから少しばかり遠ざかっていたが、久しぶりに吉和(廿日市市)の山林を探索する機会を得た。この山林はこれまで歩いてきた細見谷渓畔林とは全く趣を異にした明るい二次林(いわゆる里山)なのだが、それが武蔵野の雑木林を連想させ、なにかほのぼのとした感覚を呼びおこす。名目はさる団体のトラスト候補地としての調査ということなのだが、ヤマザクラもまもなく満開。まるで春の行楽気分だ。

 すこし早めに集合場所に着いたので、吉和の景観を楽しむことに。水路を流れる水音とその透明度が陽光に輝いて、春らしさを際立たせている。左手になだらかな山容の女鹿平山、正面には立岩山系その間をぬって流れる太田川には、アマゴ目当ての釣り人が竿を振っている。その川の向こう側のなだらかな斜面に候補地がある。

 山腹の広葉樹林はライトグリーンの新緑がのどかな風景を演出している。田植え前の水を張った田んぼからはちょっと寂しいながらもカエルの鳴き声も聞こえてくる。そのカエルたちを狙ってか、シマヘビがお出ましだ。

 そうこうしているうちに全員集合。

トラスト候補地へ 

 車を降りると、目の前にアケビの花が目に飛び込んできた。幸先が良さそうだ。写真を撮ってあたりを見回すと、小さなうす黄色の花をつけたシロモジ(クスノキ科)を見つけた。広島大学名誉教授の関太郎さんによれば、シロモジはソハヤキ(襲早紀≒西南日本外帯)型の分布をする典型的な樹種として知られており、広島県内での生育は注目に値する樹木であるという(広島県植物誌)。先端が三裂している葉が特徴的。そのシロモジが群落をなしている。かなり面白い二次林なのだ。そしてもう一つ、ウワミズザクラとおぼしき幼樹がこれまた群落をなしている。もしこれが間違いなくウワミズザクラであれば、近い将来、クマの夏の採食地として大変重要な地域になるに違いない。尾根筋にはアカマツが残存しているが、斜面はクリ、コナラが優占する明るい二次林でこちらも秋の実りがクマにとって価値ある森となりそうだ。

註)ソハヤキとは、熊吸の瀬戸、伊半島のこと。おおよそ西南日本外帯に一致する地域



そしてこの明るい林床にはフデリンドウがそこかしこで小さな薄紫の花を咲かせている。実はこのフデリンドウ、私にとって初見の花なので少しばかり興奮した。トラスト地境界付近の沢筋にはケヤキの大木も。

 かつては、吉和集落周辺の山の上部にはイヌブナが、その下部にはクリが優占する森林が広がっていて、クマをはじめとする野生動物が暮らしていたという。戦後復興の名の下に、クリの巨樹は鉄道の枕木とするために大量に伐採され、イヌブナの林はほぼスギの人工林に置き換わってしまった。そうした森林の変化は当然野生動物の暮らしを破壊したことは容易に想像される。今日の獣害問題の根本は、工業化社会に向けての自然改変にあることは疑う余地がない。農業を自然のサイクルから切り離し、工業化へと邁進する流れは、持続可能性を放棄する流れでもある。農業が持続可能なものとして生き残るためには、生物的自然を基礎とした循環型な産業へと再生させる必要があり、そのためには生物(学的)多様性を再生させるためのストックの保存が必須である。その意味では、小さな面積であっても、トラスト地として、ストックを保存することは、大変大きな意味があると思う。もちろんこうしたトラスト運動のような事業は本来国が音頭をとって進めるべきもであることは言うまでもないが、国が腰を上げない以上、民間の有志が立ち上がるしかない。



 さて、このトラスト候補地を歩いていて、一つ気になることが見つかった。それが写真にあるリョウブの樹皮食い痕である。多雪地帯である吉和地区にはこれまでシカは生息していないとみられていた。ただ2017年には細見谷で初めてシカの姿が捉えられた。https://syara9sai.hatenablog.com/entry/2017/09/17/163312

その後もポツポツとシカの姿がVTRカメラに捉えられるようになった。そうした事実からすると、ここにシカが現れた可能性も否定はできない。樹皮食いのあったリョウブの傍らには、角を絡めた痕(角研ぎ)ののこるアセビや小さいながらもシカとおぼしきフンも見つかったので、疑わしくもあるが、シカが活動していたことがうかがわれる。


 いずれにしても、ここがトラスト地として保全の対象となることを願ってやまない。

大規模再エネ事業か、それとも美しい農村風景かー農村の未来を問う2 加美町

 

加美町風力発電建設地―撮影:日本熊森協会本部 水見竜哉

 宮城県北西部に位置する加美町は、奥羽山脈の東縁に位置し、農業を主産業とする町である。鳴瀬川とその支流である田川に挟まれた地域には平坦な堆積層が広がり水田地帯となっている。どこか砺波平野の散居村を思わせる景観が広がる農村地帯である。この町のシンボルである薬莱山は加美富士とも呼ばれる独立峰で平野の中に屹立する姿は心を揺さぶるものがある。そんなのどかな加美町ではあるが、少し前からきな臭い匂いが立ちこめるようになったとのことだ。こけしで有名な鳴子(宮城県大崎市)との境となる地域一帯に大規模風力発電計画が持ち上がり、一部ではすでに工事が始まっている。地元ではこの計画に疑問を感じた有志が「加美町の未来を守る会」を始めとする市民団体が建設反対の声を上げて活動している。その一環として、環境法律家連盟と再エネ問題全国連絡会合同でのシンポジウムが開催された。私も、「この森林破壊は問題だ」というタイトルで話をしたのだが、30分という短い時間でもあり、豊かな暮らしをするための自然の価値については十分伝わったかどうかいささか不安であった。とはいえ、このシンポジウムは市川守弘弁護士の問題点の指摘もさるものの、室谷弁護士の「加美町が、風力発電事業者と交わしていた町有地の利用に関する地上権設定契約について、明らかに他地域の自治体とは異なるような、問題ある契約である」ことの指摘は参加者に大きな衝撃を与えたようであった(シンポジウムの内容は(FB:加美町の未来を守る会・環境法律家連盟のページを参照)

 シンポジウムに先立つ現地視察では、残念なことに工事現場へ足を踏み入れることができなかったが、これまでの工事現場での様子(上の写真)を見る限り、森林生態系にかなり深刻なダメージを与えることはまず間違いない。

 工事現場周辺は、溶結凝灰岩の様なもろい土質(上の写真)にミズナラ、コナラが優先する落葉樹林が生育しており、かつては薪炭林として利用されていたようだ。樹齢は若く、風の影響もあるのか樹高が低い。見晴らしの良い場所にたってみると、かつてのブナ林がわずかに残っている。

 ここは、漆沢ダムの堤体(ロックヒルダム=石を積んで堤体とする)に利用することを目的とした石切場であったというが、岩質が脆く、使用に耐えないということで事業はとまった現場だという。

漆沢ダム-この向の尾根筋に強大な風車群が林立するという

 このような土質の尾根筋に道路を切り開けば、土石流や斜面崩落が生じることは大いに予測される。さらに問題なのは、埋土種子など森林再生のストックとなる表土層を削り取ることは森林再生を疎外する大きな要因ともなるし、吹き抜ける風による森林内の乾燥化の原因ともなる。こうした乾燥化の進行は林縁部の樹木群の枯死を招き、さらなる森林破壊をもたらすであろう。

現場付近のの若い二次林。

遠くにブナ林が見える。かつてはこのようなブナの林が広がっていたのだろうか

 そしてほとんどの住民がまだ気がついていないような問題が私には気にかかっている。加美町の住民の多くは平野部に暮らしており、山の変化にはそれほど敏感ではなさそうなのだ。確かに土石流や低周波といった直接被害をもたらすであろう問題には関心を持っているのだが。このような森林破壊が続けば近い将来必ず獣害(クマの出没)が目に見える形で頻発するようになるにちがいない。加美町の農村風景は、どこか砺波平野の散居村を思わせる景観だと描いたが、今、その富山の農村ではクマの出没が相次いでいる。宮城県のクマの生息状況の詳しいことはわからないが、県が発表している出没状況は西中国山地での傾向とよく似てきている。

 宮城県(2005-2020)と広島県(2003-2020)とのクマの月別出没状況を見比べてみると、明らかに同じ傾向を示しており、近年は春~夏にかけても市街地周辺に出没する傾向が強くなっている(加美町は第四期宮城県ツキノワグマ管理計画の管理区分で重点区域となっている)。これは、森林の生産力の減退とともにクマの生活様式が変化し、人工的な食資源に依存する傾向が強まっていることの表れと私は見ている。じつはこうした傾向は1990年代から始まっていたのだが、最近では生息域の拡大(中核的生息知からの分散)が顕著になっている。加美町の平野部でもその傾向は徐々に出始めているのではないだろうか。奥山の生物多様性とそれを基盤とした生産力の回復もなく、逆に生息知たる森林の破壊が進めば、よりクマの出没は不可避となり、それはクマ個体群の絶滅まで続くのではないかと危惧している。
 自然破壊をもたらす、大規模風力発電計画よりも、地道に森林生態系の回復を目指す事業を展開することが加美町の将来を明るいものにすると確信している。
 そして、この風車群を破産で北西側には、鳴子温泉郷がある。丸森町と同じく、美しい農村風景を大事にして、豊かな食糧生産基地として町が発展していくことを願っています。

 

 








 

大規模再エネ事業か、それとも美しい農村風景かー農村の未来を問う

 メガソーラー&大規模風力発電計画が目白押しの東北地方宮城県丸森町加美町へ現地視察とシンポジウムに招かれて行ってきた。成瀬ダム問題以後、久しぶりの東北なので、用事が済んだあとは、仙山線奥羽線米坂線羽越線を乗り継いで、山寺と村上市(新潟)のサケ漁や加工品製造などを観てこようと計画を立てたのであるが、台風による交通障害の為、村上市行きは断念し、その代わりに、江戸時代における循環型農業の発祥地である三富(上富・中富・下富)地区と川越郊外の雑木林を観てきました。

 今回はこの旅で観てきたこと感じたことについて書き留めておくことにしましょう。

宮城県丸森町

 最初に訪れたのは丸森町西部の耕野(こうや)地区は干し柿とタケノコの産地として暮らしを、地区の外れを流れる阿武隈川は、美しい景観を見せてはいるがその反面災害をもたらす暴れ川でもある。2020年の台風19号による斜面崩落、それに伴う土石流、河川の越水による道路の崩壊などの災害の傷跡が生々しい。こうした災害の中でも最悪だったのが2011年の福島原発事故であろう。この事故による放射線物質汚染は実に深刻で、降り注いだ放射税物質(主にセシウム137-半減期約30年)のために未だに一部農産物の出荷できない状況とのことだ。

 民家周辺は除染が済んではいるものの、山林はほぼ手つかずのままである。そんな中、住民の方々は再生に向けて日々活動している。そうした住民の努力を無視するかのようにメガソーラーが進出し、さらに大規模風力発電計画も持ち上がり、住民の反対運動も熱を帯びてきていて、今回の訪問は環境法律家連盟と再エネ問題全国連絡会合同の現地視察と意見交換のためのものである。

 丸森町周辺の地質は花崗岩が風化した真砂土地帯が多い。現地視察してみてわかったのだが、至る所に土石流の痕と思われる地形があり、ほとんどの谷には土石流で堆積した土砂を整備してできた棚田が散在している。

 人々は過酷な災害を乗り越えて、棚田を開き美しい景観を造成してきたことがうかがわれる。紛れもない文化遺産的な村落なのだ。まさに禍を転じて福となすということなのだが、最近の防災に名を借りた土木工事は、災い転じてさらなる災いとなす的な大きな疑問を感じる。台風19号による土石流があった現場でみたが、それはひどいものだった。知恵がなさ過ぎるのだ。過去を知る地元住民意思を政策に反映させる工夫がいるのだと感じた。生半可な土木技術が生物多様性という自然の価値を無視して、直近の災害のみに焦点を当て、広い視野にたった長期にわたる展望を持てないものにしているのかもしれない。ここはいったん土建屋マインドを捨てるときなのではないだろうか。

 川は流速を弱めるために川床もコンクリート製、護岸もコンクリート製の排水路となり、砂防ダムは長大な土石流の滑り台的構造となっている。まるで生きもののことは眼中になく、今だけなんとかなれば的発想の土木工事がまかりとおっている。

 とまれ、このような崩落しやすい真砂土の斜面の森林を皆伐し、土砂を削ってソーラーパネルを設置したり、尾根筋に大規模な道路を開設して風車を建てれば、大規模な土石流を誘発する危険性が大きいことはわかるはずである。それだけではなく、大規模な地形変更は、地下水脈の遮断の原因となるが、個別の工事や事業との因果関係は特定できない。それゆえ保証問題も、地元では泣き寝入りとなるケースがほとんどである。更には、除染されていない土壌内の放射性物質の再拡散さえ心配される。そうなれば風評被害では済まされない深刻な実害をもたらしかねない。まさに生存に関わる問題となる。これはまさに環境正義(公正)に反する行為である。ただ、現行の法制度ではこうした問題を解決することはできそうにない。一にも二にも、地元の人たちの努力ということになる。住民共通の意思として土地の提供を拒むことができればいいのだが、公有地であったり、個人の事情でそれもなかなかうまくは行かない場合もある。そうした過酷な状況の中で、どのような解決策を見いだすことができるのだろうか。現在の強欲資本主義に抗するのは難しいのだけれど、丸森町の景観の素晴らしさは一つの武器になるようにも感じた。

 近い将来、日本は重大な食糧問題に直面するに違いない。そのときになって初めて食糧生産基地としての農山魚村の価値が再評価されるはずなのだが、それまではなんとしても破壊から護る手立てをしておかなければならない。車を運転しながら、丸森町のあちこちを走っていて見つけた農村風景は実にのどかで気高い。電線の地中化などの工夫をこらせばさらに景観の価値は高まる。都会がうしなったのどかな景観は新たな観光資源としての価値を持つのではないだろうか。おそらく視察団のだれもがその価値を感じとったに違いない。

 とにかく、丸森町の景観は素晴らしく、それは近い将来、最大の財産となるに違いない。









渓畔林へは入れず―芸北漫遊の一日

 さる自然保護団体が10月下旬に、クマ関連の講演会(くまもりカフェin広島)を企画しており、それに続く現地観察会を細見谷渓畔林で行いたいので、協力してほしいとの依頼があった。初版の事象があってこのところ細見谷へ入っていなかったので下見に行くことにした。

 ところが台風14号が、細見谷のある広島県西部に大雨をもたらし、河川の氾濫もあったので、林道の常態に一抹の不安があった。我が家から細見谷へ至る県道は佐伯地区で小瀬川沿いに県道、国道を走ることになるのだが、数カ所で道路が陥没するなどの被害が出ていた。幹線道路でこれなのだから、元々悪路の林道はもっとひどいのだろうと思いつつ現地は向かった。

 吉和地区に入り、匹見方面へ抜ける国道434号へとハンドルを切ったのだが、この国道は酷道と呼ばれるように道幅は狭く、匹見地区以遠は通行止めとなったいたのだが、今回は吉和分岐点から先は通行止めとなったいた。やむなく、並行して走る広域基幹林道を利用する殊にしたが、この林道も管理状態が良いとは言えず、あちこちで舗装が剥がれている。林道は作るだけ作るが、維持管理はなし、という典型的は具体例のようだ。ただこの林道沿いは間伐作業が続いているので、かろうじて通行禁止とはなっていない。そうしてようやく、十方山林道入り口までたどり着く。ここから先、渓畔林へと続くこの林道は5年程前から一般車両の通行が禁止されているので、通行には事前に許可が要る。通年調査を続けているので、手続きに遺漏はなくゲート(鎖)は解錠して通過できるのだが、予想通り、林道は洗掘がひどく、早々に計画変更を強いられることになった。

 渓畔林がだめなら、大規模風力発電計画がある市間山ー立岩山のブナ帯を視察してみようかと思い、戸河内方面を目指す。が、こちらも林道閉鎖があって断念。やむなく内黒峠を超えて横川地区へ抜けようと思ったが、この道も閉鎖。八方塞がりだ。ここまできたら三段峡研究会(さんけん)を表敬訪問して情報交換をと思ったのだが、事務所は無人でこれもだめ。

 最後の手段として、芸北の刈尾山(臥竜山)と八幡湿原、及びそこに隣接する大規模風力発電計画地の視察へ切り替える。とまあ、災害地視察のような一日になったのだが、決して無駄足だった訳ではない。この日、出会った様々なことをつらつら紹介してみよう。

 まず、国道196号線を吉和へと向かうと、小瀬川太田川との分水嶺を超える手前に飯山という小さな集落がある。典型的な過疎集落で、廃田が広がる中、一部の田畑は県の農業監修地としてかろうじて農作業が続いていたのだが、それも終了したのか、今では荒れ果てた草地にソーラーパネルが設置されていた。かつて「消えゆく集落・消える食糧生産の現場 - 生きもの千夜一話 by 金井塚務」としてこのブログで紹介したところである。事態は一段と厳しくなっているのを実感する。食糧危機には目もくれず、ひたすら高エネギー消費社会へまっしぐらな日本に未来はあるのだろうか? 

 渓畔林へのアプローチを断念してあちこち動き回って、とりあえずブナ林が残る刈尾山へ行き、林道のどん詰まりで昼食をとることにした。樹木の隙間から島根方面に大きな風車が見える。あとで現場へ行くことにしてとりあえず飯。同行したメンバーはコンビニ弁当だが、私は自分が管理する浜で採れた「大野浅利」の炊き込みご飯をおにぎりにしたもの。彼らには申し訳ないが、自前の生産物ということで勘弁してもらう。ご飯を食べながら何気なく足下を見ると、ホオノキの果実かとまがうようなものがたくさん落ちている。ミズナラの虫こぶですね。というのだが初めて見るものだった。そう言われてみれば青いミズナラのドングリが混じっている。どうやらミズナラミイガフシ(写真)というもののようだ。

こうなるとクマはミズナラのドングリをあてにできなくなるだろう。クリは豊作に近い実りだったが、コナラ、ミズナラなど堅果類は不作ないしは凶作。ミズキもあまり実りは良くなさそうで、これらをクマ利用した痕跡は吉和でも少なかった。八幡湿原に隣接して島根県側に大規模な風車群が設置されていて、県境ギリギリまで迫ってきている。効用までにはまだ少し早いようだが、刈尾山のブナが心なし生気が無いように見えた。森全体がスカスカのような感じで生物の気配が薄いように思える。気のせいだろうか。それならいいのだが、これまでの経験からすると最近、奥山からはクマの姿が消えつつあるのは確かなようだ。

 刈尾山をあとにして八幡湿原へ向かう。ここでは久しぶりにカンボクに出会えた。同行した若者たちは、カンボクの赤い実の匂いを嗅ぎ、顔をしかめていた。これは不味い果実の代表だと教えると、その審議を確かめるために一口食べたのだが、そのまずさにたまらず悲鳴を上げていた。試してみる心意気に乾杯。

ミゾソバとススキが美しかった

何やら樹木が茂った湿原をパスして、例の風力発電施設の現場へむかう。道はここも最悪。途中落ちている大きな枝をのけながら進むのだが、そこで、大変美しいシマヘビの黒化型に出会うことができた(写真)。

 ガタガタの林道を進み県境を越えると、大規模破壊の現場へでる。この現場については私のFBで紹介してあります。

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