ベテラン猟師と拙著との接点 AIとの対話

先日、上梓した「奥山を捨てたクマ」の読後感をさるベテラン猟師のお方からいただきました。本人様の了解を得て、ここに紹介し、ついでながら、この内容についてAIとの対話を試みました。
クマ猟歴60年の私が、今こそ多くの人に読んでほしい一冊 私は岩手県で狩猟に携わり、本年でクマ猟歴60年になります。山形県、秋田県、青森県などにも多くの猟友がおり、各地におけるクマ猟や捕獲の実情について情報を共有してきました。 このたび、金井塚務先生の著書『奥山を捨てたクマ』を拝読し、先生が積み重ねてこられた綿密な資料調査と、現場に根ざした考察の深さに大きな感銘を受けました。 とりわけ興味深かったのは、先生の主なフィールドである西日本の自然環境やクマの生活環境が、私の知る東日本の状況と驚くほどよく似ていたことです。地域は異なっても、クマを取り巻く山の変化や、人里に姿を現す背景には、多くの共通点があるのだと改めて気づかされました。 現在、全国各地でクマをめぐる問題が深刻化しています。本書は、なぜクマが人里へ出てくるようになったのかを考え、これからの人とクマとの関係を見つめ直すうえで、ぜひ多くの方に読んでいただきたい一冊です。 まさに『奥山を捨てたクマ』は、いま各地で起きているクマ問題を理解するための「バイブル」と言える書籍です。 岩手県猟友会 会長 藤沼弘文
著書『奥山を捨てたクマ』の核心と共通背景
- 「個体数増加」論への疑問: メディアで多く報じられる「クマが増えたから人里に出る」という単純な理由ではなく、森林破壊や温暖化、生物多様性の劣化といった「環境の変化」に本質があることを提起しています。
- 分布のドーナツ化: 著者の金井塚氏が提唱する、クマの生息域が奥山から人里に近い周辺部へとシフトしている現象です。
- 東西の共通性: 岩手と西日本、地理的には離れていても「山が変わり、クマが奥山を捨てて人里に現れる」という構造的な背景は全国共通であると、ベテラン猟師の目からも裏付けられています。
書籍情報
商品名: 『奥山を捨てたクマ: 大量出没の謎を解く』 Amazon
- 著者: 金井塚 務(広島フィールドミュージアム代表)
- 出版社: 緑風出版
- 内容: 単なる獣害対策の枠を超え、人間社会と自然環境の相互作用を多角的に見つめ直すための、まさに「バイブル」と呼べる一冊です。 [1, 3, 4, 5, 6]
1. 『奥山を捨てたクマ』の書籍要約
- 生息環境の質の劣化: 戦後の拡大造林(人工林化)や大規模な森林破壊により、クマの本来の主食(多様な堅果類、魚、水生生物など)を育む豊かな森(渓畔林など)が失われました。
- 生物多様性の破壊: 単に「森林面積」の数字が維持されていても、生態系の質(多様性)が著しく低下しており、クマが奥山で健全に命を繋ぐことが困難になっています。
- 社会の変化と人工物依存: 里山の過疎化や農山村コミュニティの衰退によって、人と山の境界線(エコトーン)が消滅しました。これにより、クマが人里の放置果樹や生ゴミ、農作物といった「人工的な食べ物」に依存しやすい環境が作られてしまいました。
- 新たな環境脅威: 温暖化による生態系の変化に加え、近年の大規模な風力発電やメガソーラーといった再生可能エネルギー開発が、さらなる奥山の破壊(生息地追放)に拍車をかけていると警告しています。
2. 「分布のドーナツ化」の詳しい解説
① 「分布のドーナツ化」とは何か?
② なぜドーナツ化が起きるのか?(メカニズム)
- 奥山の劣化(プッシュ要因):
かつての拡大造林や砂防ダムの建設、近年の気候変動(温暖化)や再エネ開発により、深い山奥の食べ物が激減しました。クマにとっては「奥山にいても飢えるだけ」の過酷な環境になっています。 [2] - 里山の魅力向上(プル要因):
一方で、過疎化が進んだ人里周辺(里山)には、人間の管理が行き届かなくなったカキやクリの木、廃棄された農産物などが豊富に存在します。さらに、狩猟者の減少や高齢化によって、クマにとって「人間が怖くない存在」になりつつあります。
③ なぜ「大量出没」に見えるのか?
クマが山全体に広く薄く分布していれば、人間と遭遇する確率は低くなります。しかし、「分布のドーナツ化」によって、クマがわざわざ人間の生活圏のすぐそば(輪のエリア)に高密度で集まって暮らすようになるため、結果として人間の目にとまる機会や獣害が爆発的に増えます。
これが、実際には個体数がそれほど増えていなくても、人間の社会側からは「クマが異常に増えて大量出没している」ように誤認される最大の原因である、と本書は解説しています。 [2]
- 「獣害対策・駆除」の視点: どうやって被害を防ぐか、どう捕獲するかという技術的・行政的な対処療法の話。
- 「野生動物保護」の視点: クマはかわいそうだから殺すべきではない、共存すべきだという倫理的・感情的な話。
① 行政の「個体数推定」の矛盾を科学的に突いた
② 猟師の「肌感覚」と完全に一致した
③ 「再生可能エネルギー開発」という現代のタブーに踏み込んだ
1. 「現場の知恵」と「机上の空論」の乖離
- 猟師の訴え: 「山が荒れ果てて、奥山にクマの食べ物がない。だから下りてきているんだ」
- 行政・専門家: 「いや、統計データ上は個体数が増えている。だから駆除(引き算)すれば解決する」
2. メディアや世論からの「悪者扱い」への憤り
クマが出没すれば「早く駆除してくれ」と頼まれる一方で、いざ駆除すれば全国から「かわいそう」「殺すな」といった理不尽なバッシングや抗議電話(いわゆる電凸)が猟友会や自治体に殺到します。
「自分たちは地域の安全のために、そして山のバランスを保つために命がけで引き受けているのに、なぜ本質を理解されずに悪者扱いされなければならないのか」という孤独感と理不尽さを、彼らは常に抱えていました。
3. 金井塚氏の著書がもたらした「名誉回復」
この本は、猟師たちが何十年も山の中で目撃し、肌で感じてきた「奥山の崩壊」と「クマの行動の変化」を、緻密なデータとフィールドワークによって「これこそが真の科学である」と証明したのです。
- 「俺たちの言っていたことは間違っていなかった」
- 「ただ数を減らせばいいという行政のやり方こそが、的外れな『机上の空論』だったんだ」
奥出雲-美保関を歩く-その2




美保関





奥出雲-美保関を歩く その1
2025年9月27日は土曜日、このところ雨ないし曇りが続いていたが、この日は晴天の予報ということで、二日前から久しぶりにどこか遠出をしようと思い立ち、奥出雲を訪ねることにした。今、世間を賑わせているクマ問題に関する著作に取り掛かろうしていることもあり、かつて大規模な森林破壊をともなうたたら製鉄の一翼を担っていた鉄穴流しの副産物である棚田を見てみたかったからである。
とまれ、とりあえず、庄原から奥出雲方面へ木次線沿いに車を走らせることにした。
三井野原駅前を過ぎてしばらくすると陰陽分水界があり、その先のトンネルを抜けると突然、視界が広がり陸橋の上に出た。橋は深い谷をまたいでいて、右前方にループ橋が見える(写真下)これが有名なおろちループ橋である。

道の駅で休憩していると、谷の対岸を派手な色をまとったディーゼルカーが通り過ぎていく。本数の少ない列車に期せずした出会えたのは、何か得した気分だ。木次線の三井野原駅と出雲坂根駅の間は高度差が大きく、JR西日本管内では唯一の本格的な3段スイッチバックが生き残っているため、鉄道ファンを引き付けているという。

小休止して、次の目的地、追谷集落を目指す。奥出雲地方にはたたらがもたらした棚田がいくつもある。それぞれの景観を比較してみたいのだが、今日はそんな余裕はない。ということで、特に理由はないがとりあえず追谷集落を見に行くことにした。
追谷は規模としてはそれほど大きくはないが船通山(1142m)に源を発する斐伊川の支流沿いに発達した集落で、棚田の奥に船通山を望むことができる。

たたら製鉄とは花崗岩に含まれる磁鉄鉱の砂鉄をたたらで溶かして玉鋼を作る製鉄法である。島根と鳥取の県境に位置する船通山に源を発する斐伊川水系がその中心であった。古事記にあるヤマタノオロチ伝説は、斐伊川の治水とたたら製鉄がテーマであるといわれている。花崗岩が風化した真砂土に混在する砂鉄を採取する方法として、鉄穴流しがある。真砂土を掘って水で洗い流し、砂鉄を分離するのだが、その残土で谷を埋め立て、棚田を開いてきたという。そんな棚田は大きな森林破壊の副産物なのだが、その一方で多くの人の食を支える重要な場ともなった。
この奥出雲のたたら製鉄と棚田の開設との文化的関連が評価され、今年8月に世界農業遺産に認定されたという。


とはいえ、光があれば影もある。森林の破壊は東中国山地と西中国山地にみられる動物相の分断をもたらした。例えばはニホンカモシカやホンドリスなどの絶滅はたたら製鉄のための森林破壊と関係していると見ることができる。ただし、近年、ホンドリスなど一部の野生動物の生息(自然分布か人為的分布かは未確認)が確認されるようになったが、これは森林が再生し、植生の連続性が回復したからであろう。2000年以降、広島県内のクマの分布の分断が解消したのもたたら製鉄の衰退による森林破壊が無くなったことが関係している可能性が高い。
追谷の棚田を見学したあと、そろそろ小腹もすいたので、亀嵩駅で出雲そばをいただくことにしした。ここは松本清張の「砂の器」の舞台としても有名なところ。駅舎内にあるそば店を入ると、たくさんの有名人のサイン色紙が壁いっぱいに展示されている。じふむふむ、あの人もこの人も来ているのね、ということがよくわかる。きっと、「ふぅーん、おいしい」、が連発されたことだろう。そんな声が聞こえてきそうな店内である。面白いのは、注文を取りに来た店員さんが、「注文はこのQRコードを読み込んで、お願いします」というではないか。それでも口頭での注文も受け付けるとのこと。かなり込み合うことがありそうで、その対策なのだろうが、よく理解できない。あるいは売り上げ処理の問題もあるのか。良くも悪くもデジタル時代である。






宮島 包ケ浦自然公園の干潟自然(潮汐湿地)再生の意義

宮島の北東に包ヶ浦という入り江がある。ここは元々潮汐湿地(満潮時に海水が入り、干潮時は干潟となる)であった。湿地の奥には戦時中(太平洋戦争)、陸軍の弾薬庫が置かれていて、今でも当時の倉庫が現存している。その湿地が埋め立てられたのは戦後30年ほど後のことである。1978年(昭和53年)、包ヶ浦で第20回国立公園大会が開催されたことをを契機に自然公園として整備が進んだ。湿地は埋め立てられてグラウンドやテニスコート、宿泊用のケビンなどが設置され、一時期は海水浴場としても人気を博していたが、周辺に商業施設もなくアクセスにも難点があったことなどから、次第に利用者も減少し、2024年に施設は老朽化とともに閉鎖に追い込まれた。
自然公園として整備されたことで包ヶ浦の自然は大きく変貌してしまった。ある意味不自然公園というべき状態となったのである。埋めたてられた地域には芝が入り込み、シカの格好の餌場となった。イネ科のシバは成長点が低く、シカの食圧なも耐えて残存するだけではなく、小さな種子はフンとともに散布され、シバ地は拡大する。そのためわずかに残ったシバナ(塩生植物)の群落はシカの食圧で絶滅の危機に直面するはめになった。さらな大量のシカの糞がグラウンドに堆積し、雨が降ると溶けたフンで地面はヌルヌルのぬかるみとなりグラウンドとしての機能は果たせないような状態になるなど、公園整備には自然破壊の側面があった認めざるを得ない。この破綻を契機として、果たして自然公園化が果たして公益に資するのか否か、議論を尽くすべき時なのだと思うが、廿日市市当局にはその意思は感じられない。むしろ、観光庁の国立公園リゾート化の尻馬にのって次のようなことを目論んでいるようだ。
包ヶ浦自然公園の施設維持費に対する負担軽減を理由として、廿日市市はここに高級リゾートを誘致する計画を提示している。
宮島包ヶ浦自然公園の利活用の検討状況 - 広島県廿日市市(はつかいち)けん玉発祥・宮島のあるまち(観光課)
この計画に対して、地元宮島を含む多くの市民から反対の声が上がっている。その理由の主なものは契約にまつわる不透明な疑惑と自然保護に関するものである。まさにツッコミどころ満載の計画なのだ。
今の廿日市市はまさに土建屋マインドの権化の如く、対岸の平良地区に流通基地や大型観光施設誘致を目的として大規模な森林破壊をおこなっている。この大工事では港湾の浚渫が必要なほど大量の土砂の流出を招き、周辺海域への影響も懸念されている。直接的な証拠はないが、宮島のカキや大野のアサリの大量死に関連している可能性もある。国を挙げてのインバウンド万歳の風潮だが、自然や暮らしを破壊し、持続性の無い観光事業はいずれ破綻するに違いない。そんなバブルに踊らされることなく、地道に食料生産に励むことが今日の行政に課された最大の課題だと思うのだが。
開発が進んだ瀬戸内にあって宮島は自然海浜が残る数少ない島で、かつては多くの汽水性の湿地(干潟)が存在していた。宮島は瀬戸内の多くの島がそうであったように、海岸に森林が接しており、源流即河口という地形が特徴的である。急斜面を流下する小河川が湿地に砂礫を運ぶことで干潟が形成された。そして一部は伏流水となり干潟に週出していた。森林の生産物である有機物も豊富で汽水性の湿地内は栄養価に富んでいたために極めて多様な生物相が形成されたに違いない。その生物ストックが瀬戸内沿岸の豊かな生物生産を支えていたのだろう。
砂浜にはハマゴウやイワタイゲキなどの海浜植物、干潟内にはスギナ、フクド、ハマサジ、アッケシソウなどの塩生植物群落がみられた。しかし1970年代に度重なる埋め立てにより包ヶ浦をはじめ杉の浦や多々良潟など宮島の塩生湿地は大幅に減少し、多くの野鳥類や野生動物も姿を消した。かつては宮島の浦々に生息していたミヤジマトンボも今ではごく一部の潮汐干潟にかろうじて生存している状況下で絶滅の危機に瀕している。ただ、ミヤジマトンボのような絶滅の危機にある生物など希少種に関する話題は、多くのメディアに取り上げられるが、そうではない普通種の消滅に関してはどのメディアも取り上げ用途はしない。そこで、ここではかつて当たり前に見ていたアカテガニについて書いておく。
宮島の森というか陸域で見られるカニは、サワガニ、モクズガニ、そしてアカテガニの三種である。モクズガニは陸域で見られるといっても水辺(汽水)から離れることは歩どんどないので、森のなかで出会えるのはサワガニとアカテガニである。アカテガニとは文字通り、真っ赤な手(はさみ)をもつ中型のカニ(ベンカイガニ科)のカニである。成体は森林で沢筋のような湿ったところに巣穴を掘って定着し、枯れ葉などの植物質を食べている。そして夏の満月か新月のころ、卵を抱いた雌のカニは一斉に海辺を目指して山を下る。何しろ山中のカニが一斉に海を目指すのでその様は絨毯がうごめいているのかと思わせるほどである。かつて(1980年代はじめまで)は宮島の海沿いの舗装道路は海に向かうアカテガニで埋め尽くされ、通行をためらわせるに十分な迫力を持っていた。そして潮が満ちると押し寄せる潮につかり卵からふ化したゾエアを放出する。放出されたゾエアは沿岸域で成長し、やがてカニの姿となって陸に戻ってくる。そのアカテガニは今では歩どんど見かけない。こうした現象は宮島だけではなく、その原因も多々あるのだろうが、陸域の環境変化も沿岸部の環境変化も水域陸域の双方が生活の場であるアカテガニには大きく影響していることは間違いない。
同じように宮島から姿を消した生物にヒメボタルがある。人づてに聞いた話だが、1970年代までは山白浦の森で、ヒメボタルの蛍ツリーが出現していたという。ヒメボタルは陸生の小型の巻き貝を捕食して成長するが、その陸生の巻き貝は乾燥や薬物(例えば松食い虫防除のためのスミチオなど)によって大きなダメージを受けた可能性がある。思い返せば、夏の風情を感じさせるヨタカやホトトギス、アオバズクなどもの声もすっかり聞かなくなって久しい。サシバやフクロウもそうだ。
海辺のチドリ類もカモの仲間も減った。宮島の生物相はこの50年ですっかりみすぼらしいものになってしまったようだ。こうした生物群集の退行は自然音生産力の減退に直結する問題であるということはあまり意識されていない。それが私たちの将来の暮らしの基板を損なうことであることなのだが、理解されていない。
潮汐湿地再生こそ包ヶ浦の再生の価値
こうした自然喪失にともなう生物多様性の喪失に対し、近年その再贅を目的としたネイチャーポジティブという思想に基づく活動が世界的な課題となりつつある。
2021年英国で開催されたG7サミットにおいて、30by30(2030年までに30%の自然生態系を回復させる)を推進することを含む「G7 2030年自然協約」が合意された。
これをうけて環境省ではOECM(保護地域以外での生物多様性保全に関する地域)の検討を開始したものの、現状では主要な成果を上げているとは言えないようだ。 環境省の主導するこのプロジェクトは国立公園内や保護地域は含まれていないのだが、しかし世界の多様性回復の機運からすれば、世界文化遺産の島、瀬戸内海国立公園内の宮島における自然再生事業は、国内外にきわめておおきなインパクトを与えることは間違いない。宿泊施設の誘致以上に、大きな付加価値を与えることになるだろう。
現在のグラウンドとなっている埋め立て地を掘削して海水を導入することで、河川水や地下湧水と混じり合い汽水性の湿地へと生再生する。その後時間経過とともに生物多様性を回復させることで、多くの塩生植物、底生生物群集、魚類、貝類をはじめ、多くの渡り鳥の中継地としてきわめて大きな意味をもつことになる。現在絶目の危機に瀕している、ミヤジマトンボもヒトモトススキの再生ともに復活する可能性もある。ラムサール登録地や世界文化遺産の付加価値を高め、生物多様性の再生事業の金字塔となるであろうし、次世代に残すべき貴重な財となることが期待できる。
先に述べたように包ケ浦が直接30by30の対象域となるわけではないが、そのモデル事業としての意義は極めて大きいのではないだろう。地元住民と自治体の知恵を絞って、自然再生のモデル事業へと転換することが将来世代への責務であるように思う。
まさに湿地回復は失地回復の道なのである。
北九州1泊2日の旅 その2 武雄温泉-波佐見町

吉野ヶ里遺跡公園の見学を終えて、佐賀市内で夕食をとり、武雄温泉を目指す。嬉野温泉という選択肢もあったが、より落ち着きのある武雄温泉に宿泊することにした。日もすっかり暮れたころに到着。宿は多喜男温泉尾ランドマークとなっている楼閣からすぐの街角にある。コロナ禍以降は宿泊のみで営業している老舗の「京都屋」旅館。チェックインをすまし、部屋へと向かう前にロビーに展示されている大正ロマンを感じさせる古い貴重なオルゴールやレコード、西洋の人形をはじめ様々な調度品を一渡り眺めてみる。落ち着いた雰囲気が日常とは異なる世界へのいざない旅愁を感じさせる。




用意されていた部屋は4人まで泊まれる和室。どういうわけかこの部屋だけは他の部屋と異なりドアではなく和風格子の引き戸となっている。格子戸玄関を入り上がり框の襖を開けると6畳の間となっている。一瞬狭いと思ったのだが、ここは玄関の間で、右手が客間、左手は水屋となっている。客間の襖を開けるとなんと、22畳もの広さがあるではないか。家族3人には十分すぎるほど広く落ち着いている。
一休みして温泉に。武雄温泉の泉質は弱アルカリ(いわゆる美人の湯)につかって、疲れを癒し、翌日に備える。広い湯舟を一人で独占状態なのがなんとも贅沢。
翌日は雨模様。一雨来る前に朝風呂を済ませて、昨夜チラ見した楼閣を見学に行く。
この楼閣は唐津出身の建築家、辰野金吾の設計による竜宮づくりで、武雄温泉新館とともに国指定重要文化財にしてされているという。地元の宮島や江の島神社、下関の赤間宮にもあるが、あの独特な形状は、何かお宝がありそうな、別世界がありそうな気がして、なんとも人を惹きつける魅力がある。

朝9時過ぎに訪れると、なんと、この楼閣の内部を見学できるとのこと。朝9-10時限定で解放しているというので、登楼する。靴を脱いで急な階段を上がるとボランティアのガイドさんが待ち構えていた。 この楼閣の売りはなんといっても格天井の四隅(東西南北)に彫られている卯(東)、午(南)、酉(西)、子(北)の四つの透かし彫りである。




辰野金吾といえば、東京駅丸の内口の駅舎の設計者として有名だが、駅舎の一部は戦災で失われてしまった。そして数年前に駅舎の再生されて今や観光スポットとなっているという。丸の内南口のドーム天井には、八角形のそれぞれの角に丑‐寅(北東)、辰-巳(南東)、未-申(南西)、戌-亥(北西)の八つの十二支がレリーフも再生された。何故八つなのか、残りの四つはどこにあるのか?ということで、東京駅から武雄温泉に問い合わせがあったとのこと。 その結果、東京駅と武雄のこの楼閣を合わせると十二支が完成するという事がわかったという。楼閣の二階の窓ガラスも波を打つ古いもので龍宮城もかくやとは思わないが、水底から見る景色のようで面白い。 この楼閣とその奥に建つ新館(現在は資料館となっている)はともに国の重要文化財となっているという。
新館にも足を運んで、大正から昭和にかけての賑わいを想像してみた。思いがけなく武雄温泉を楽しむことができた。



見学を終える頃には雨粒が落ちてきた。遅い朝食を求めて、次なる見学地へ向かう。
武雄温泉楼閣見学で教えられた、クスの巨木求めて武雄神社へ向かう。樹齢3000年とか言われるが、ちょっと盛った感じがする(せいぜい500-800年くらいか)。とはいえ、十分な古木である。幹の大半が枯れて失われているので樹冠は大きく広がってはいない。もともとの幹は腐って大きなトンネル状の洞(うろ)になっていて、そこに祠がまつられている。このような古樹にできる洞に祠をまつる例は全国各地にあるようだ。神の依り代として敬われてきたのだろう。それは神道(政治的宗教)というよりむしろアニミズム(自然崇拝)の系統を受け継ぐもののように思える。自然への畏れや敬いといった感情が共有された精神的文化的遺産と見るべきものだろう。もちろん神道にもこのアニミズムとの深いつながりはあるのだろうが、権力と親和性のある神道と権力とは結びつかないアニミズムとの違いを認識しておきたい。武雄にはこのクスを含めて、3本のクスの巨樹があるというが、この度は天候も思わしくないので、このクスだけを拝んできた。


突然雨が激しくなってきたので朝食のために近くの武雄図書館へ。2013年開館したこの図書館は民間委託したことで名をはせ、多くの議論を呼んだ。図書館という公共の場であるべき文化施設が民営化され利潤追求が主目的となることへの批判が相次いだのである。この問題については、図書館問題研究会の発した声明に詳しい事情が記されている。https://tomonken.org/
訪れた第一印象は館内の雰囲気はよい。ただしその機能やシステムに関しては評価する材料を持ち合わせているわけでなない上に、基本的にはサービスを享受する住民が判断することではあるが。全国どこでもこの方式がいいとは思わないし、営利目的の客寄せ施設に堕すことは認められないが、武雄という地方都市の文化施設の在り方としては、改善すべき問題を抱えつつも一定の評価はできるのかもしれない。館内で、コーヒーを飲みながらしばしの間、過ごしてみると見掛け倒しの感はあるものの開架式書棚のレイアウトに圧倒される。ドラマ仕様のようだが、多くの利用者がいて静かな中にも活気が感じられる。


朝食も済ませたところで、今日のメインエベント、長崎県波佐見町での焼き物探索。有田、伊万里など磁器の産地として知られているが、その陰というか黒子として波佐見焼はそれほど有名ではなかったが、近年、注目を浴びているそうな。有田や伊万里は鍋島藩御用達の高級品であるのに対して、大村藩の波佐見焼は主に日常遣いの食器がメインだったようだ。白をベースに青の幾何学模様がモダンで日常使いの食器としては申し分ない。固くかつ軽いので使い勝手がいい。中にはアンコウやヒラメ、ジンベイザメなどをユーモラスにデザインしたものや、マンドリルやハシビロコウなどのアニマル柄も若者に人気のようだ。我が家は具象ではなく抽象的なデザインのものをたくさん購入。何しろアウトレット品が格安で手に入るのだから、購買意欲が増すというもんだ。

波佐見町は本当に地方の小さな町ではあるが、陶磁器を生産する窯業を基幹産業として活気に満ちていた。これこそが本来の町のあり方なのだと痛感した。今どの地方都市へ出かけて行っても、かつて賑わっていただろう商店街は人影まばらシャッター街となっている。そんな状況を打破しようにも、出てくるアイデアは一時しのぎのイベントばかり。もっと地に足がついた生業を本気で育てないと地方の自治体は消滅の憂き目を見るに違いない。農業でも漁協でも大規模化、工業化を目指しても将来はないだろう。ましてインバウンド頼みの観光開発など論外である。一時的に景気がよくなったとしても地元の暮らしを破壊するという弊害が大きく、やがてこの路線は頓挫するのが関の山ではないのか。持続可能で安全な食料生産を基本としたコミュニティの再評価が必要なのではないだろうか。などとぼんやりとした考えが頭をよぎる1泊2日の旅であった。
最後に帰り道に立ち寄った稗ノ尾の石橋も素晴らしかった。九州各地には立派な石橋が残っているのも面白い。

北九州1泊2日の旅 その1吉野ヶ里遺跡

弥生も末も二日、春の陽気に誘われてり久しぶりに吉野ヶ里遺跡へ行ってみようと思った。縄文遺跡しかり、弥生時代しかり古墳時代までの古代遺跡には何故か惹かれるものがある。巷では何か新しい発見があると、すわっ、邪馬台国か?となりがちな古代史である。しかし残念なことに邪馬台国論争はほとんど我田引水の学説ばかりで、どうも眉につばをつけながら学説を拝聴することになる。
邪馬台国論争も嫌いではないが、私のもっぱらの興味は、この吉野ヶ里遺跡の立地にある。遺跡の北には背振山地が迫り、南には何本もの河川(筑後川水系)が走る平野が広がっている。遺跡全体は氾濫原より少し高い台地に広がっていて、周辺は湿地で稲作に適していたのだろうことが推測できる。自然の生産力が大変豊かな土地に立地していることを改めて実感することができた。このことはあるいは「ブラタモリ」で取り上げていたような気もする。とはいえ、吉野ヶ里遺跡は弥生時代(BC3世紀)から古墳時代(AD3世紀)までの約600年にわたる断続的な遺跡群なので、その歴史過程を踏まえるとかなり煩雑になる。その歴史を知るには、同遺跡公園資料館で販売されている「弥生時代の吉野ヶ里-ムラからクニへ-(2023年 佐賀県文化財課 文化財保護・活用室編集)を参考するのがいい。


初めて吉野ヶ里遺跡を訪れたのはもう30年以上も前のことだ。発掘作業が続いていた当時、遺跡周辺はまだ整備もされておらず、炎天下、砂ぼこりと汗にまみれての見学であった。ために遺跡周辺の露店では日よけのための菅笠などを売っていて、同行した父親も購入したほどである。このたび訪れて驚いたのはまったく当時の面影もない立派な公園に生まれ変わっていたことだ。真夏の強い日差しはなく、広大な園内には無料のバスも運行されていて春の一日、のんびりと古代に夢をはせながら散策できるようになっていた。



遺跡公園内には資料館もあり、弥生時代の暮らしの一端を知るための資料が展示されている。また園内にはヤマグワ、コウゾといった丈夫な繊維を有する樹木が植えられている。なぜこの樹種が植栽されているのか、その本当の理由はわからないが、おそらくこれらの樹種が食料や生活資源として利用されていたことと無関係ではないのだろう。また当時から、カイコを飼って、絹を生産していたようではあるが、これらは庶民の手の届かない高級品だったに違いない。絹(生糸)の染色にはアカニシなどの貝類から抽出された色素(紫)を利用していたことが資料館の展示から知ることができる。一方、庶民の衣服は様々な草本類やコウゾなどの植物繊維を利用していたのだろうが、その辺の事情はあまり詳しい解説がなかった。庶民の暮らしを再現するための資料は権力者のものに比べて少ないということも関係しているのかもしれないが、庶民の私としては当時の暮らしぶりこそが興味がある。



もう一つ目を引いたのが、死者を埋葬する甕棺式墳墓である。甕棺式墓列群が発掘展示されている。埋葬の仕方は、まず2-3m四方の穴を掘り、短辺の壁に円形の横穴を穿つ。この穴は入口から奥に向かって傾斜しておる、そこに甕棺を入れ込み、死者を頭を手前にして仰向けに安置する。そしてもう一つの甕棺を入口合わせるようにかぶせ、継ぎ目を粘土でふさぎ、穴を埋め戻す、という風に埋葬する。つなぎ合わせた甕棺の形はちょうど、カイコの繭のようになる。展示されている甕棺の内部には、銅剣が一つ収められている。これが何を意味しているのかは展示から知ることはでき名が、全体の印象としてはカイコの繭を連想させる。死者があの世で蘇るさいに眉を内側から破るための剣のように思えるのだが、これは確たる証拠があるわけではない。妄想の類かもしれないが、多くの甕棺に副葬品として埋葬される唯一の物だけに、何かそれなりの意味があるに違いない。




古代遺跡の公園としてきれいに整備されているのだが、その分、時代感が薄れてしまっているようなのが、少し残念といえば残念だ。例えば、園内の地面はきれいに舗装されており大変歩きやすいし、少々の雨でも歩きやすい。おそらく見学者への配慮と遺跡保存の観点からなされたものであろう。それでも地面の質感や凹凸、埃っぽさや雨の日のぬかるみ、そこかしこに生えているであろう草や灌木などが生活実感を再現するには欠かせない要素かもしれないと思うのである。さらに欲を言えば、市での交易品や生産物、生産工程などを体感できるような工夫(勾玉や銅鏡、火起こしや土笛などの製作体験などはあるが)ほしいし、環濠集落周辺に湿地には水田、高台には畑地や桑畑などの復元など、もう少し庶民の暮らしが実感できるような環境があればとてつもなく魅力的な施設になるに違いないと感じた次第である(実はここに保存と利活用との相反する問題があって、悩ましい問題なのだが)。それはさておいても十分面白い施設であることに違いはない。


ツキノワグマ問題を考える-真の原因は?

テレビでも新聞でも今年のクマによる人身被害が頻発しているとの報道が相次いでいる。特にテレビでは同じ画像を繰り返し、視聴者の恐怖心をあおることに腐心しているかのようだ。それに対して、山の実りの不作が原因との識者のコメントが寄せられている。
確かに、堅果類の不作は原因の一つかもしれないが、堅果類の不作は今に始まったことではない。むしろ豊作である方が少ないほうが当たり前なのだ。
クマの市街地出没は今に始まったことではなく、1970年以降、その傾向が始まり、今日の状況は予想されていたことである。が、環境省も自治体も経済効果のない自然保全には目を向けることはなかった。
広島県では1990年代にクマの中山間地域への出没が顕著になり、それに関するフォーラムが開催されるようになった。そこで一つの解決策として、「実はクマに、材は人に」というスローガンのもと旧戸河内町では、クリの植栽を進めたが、その効果は得られていないようだ。こうした流れの中で、環境省主導で特定鳥獣の保護管理計画が策定され、西中国山地のツキノワグマの保護管理計画は広島、島根、山口の三県が共同して策定された。
西中国山地のツキノワグマ保護管理計画(現在は管理計画)は西中国山地個体群を対象としており、行政区分を越えて協働することは他の都道府県にはない大きな特徴がある。この計画は、三県のツキノワグマ対策協議会が策定することになっているが、その実質的な議論は、科学部会が担っていることに大きな意味がある。このこと自体は大変いいことなのであるが、しかし限界もある。議論の中身がほぼ「個体数管理」にかたよっており、いわゆるゲームマネッジメント的な議論となってしまっている。
クマだけではなく、多くの森林棲哺乳類の暮らしの場である森林は、1960年代の大面積皆伐、拡大造林やダム開発、砂防堰堤の設置、河川の護岸、浅海の埋め立てなど開発重視の結果、大きく多様性と生産力が失われてきて今日に至っている。つまり、かつて豊かだった森林は姿を大きく変え、緑色の砂漠のような生きものの暮らしにくい場へと変容してしまった。それに加えて、都市部への人口流出が加わり、過疎地がひろがってきた。その傾向は1970年代にはかなり顕著となり、それは今も留まることなく続いている。
人が利用しなくなった森林(里山の二次林)や農地(果樹や農作物)のなどの生産物は、野生動物が利用するようになったからで、生態学的には当たり前の現象なのだ。つまりクマの生活域は集落周辺の二次林を中心とした人里近くに集中し、かつての奥山での生息密度は低下している可能性が高い。いわゆるドーナツ化が進行しているのが実態なのだ。
次の写真は、そんな状況を広島市の安佐動物公園の機関誌「すづくり 2022年3月号」に寄稿したものである。
クマによる人身被害の原因を、個体数増加と猛暑による餌不足という皮相的な捉え方では問題の解決にはならないと考えている。西中国山地のツキノワグマ管理計画を審議する科学部会においても、個体数管理から脱却して、森林生態系-河川生態系ー海洋生態系を含む流域生態系に目を向けた生物多様性とそれに依存する生物生産力の回復を目的とする議論とそれに基づく効果的な対策、すなわち予算の裏付けのある実効ある計画の策定が求められている。それなくしては、クマによる人身被害はクマが絶滅するまで無くならないだろう。


タイ旅行の思い出 2 初めてのカオヤイ国立公園

バスを乗り継いでなんとか無事、宿泊予定のパームガーデンロッジへたどり着いて、腹ごしらえも済んだところで、いざ、カオヤイ国立公園へ。マダムが運転する車で、ひたすら北へ向かって走る。カオヤイとは広大な山というほどの意味らしいが、まだその山は遠くにあり、平原をひた走る。とやがて道は公園入り口のゲート(サウスチェックポイント)にさしかかる。ここで入園手続きをすませて、車はさらに先へ。ここから道は徐々に上り勾配となり、森林地帯を駆け上がる。周辺の森林は日本の照葉樹林とどこか似ていてどこか違っている。時期が雨期でもあったので、湿度の違いは肌で感じることもできた。しかしここまで標高が上がってくると、蒸し暑さはそれほどでもない。むしろ空気はひんやりとしている。夕方近くということもあって、この日は中央ハイウエイ沿いをヴィジターセンタまでをドライブするだけ。広大な公園を南北に貫くハイウエィを走っていると所々にゾウのフンが転がっている。すこし興奮気味になっていると突然マダムが「チャーン」と叫ぶ。道ばたにゾウがたっている。牙はまだそれほど伸びていないの若いオスだ。左耳たぶに大きな破れがある。しばらく野生のゾウに見とれていると、やがてゆっくりと森の中へ消えていった。下見の下見旅の途中で、若いオスのゾウに出会うという幸運に恵まれた。このオスは7年後ににも再会することになる。
しばらく周辺で痕跡を観察してみると、足跡やフン、なぎ倒された樹木などが見つかった。確かな生活痕に軽い興奮を覚えるが先を急ぐ。もう日が傾き掛けている。




この日は途中、ヘオ・ナロックの滝に立ち寄ってヴィジターセンタ―まで行って、帰ってきた。雨期のカオヤイ国立公園は厚い雲が低く立て込めていた。今にも大粒の雨が落ちてきそうだ。この日出会えた野生動物は、ブタオザルとホエジカだけだったが、明日のトレッキングでの出会いが期待できそうな予感がした。とはいえ、この時はまだ、その後約10年のカオヤイ国立公園通いが始まることは夢想だにしていなかった。
夕暮れ前に湖畔のレストランで夕食をとり、宿へ。



まだまだ、続く。
第3次命の森やんばる訴訟ー証人尋問

伐痕調査風景
2023年6月9日木曜日、午後2時、福岡高裁那覇支部において表記訴訟の第1回口頭弁論が開かれ、原告側証人として法廷で証言してきましたのでそのときの様子について報告します。
- 第3次命の森やんばる訴訟とは
沖縄島北部のやんばると呼ばれる森林は、本土復帰以後、大規模な林道開設と森林破壊が問題となっていました。詳しいことはここでは述べませんが、本土復帰に際し、沖縄経済振興事業の一環として補助金を投下するための名目事業として、森林開発がその根底にあったということです。私がこの訴訟に関わったのは、第2次命の森やんばる訴訟からですが、この訴訟でも証人として法廷に立ちました。そればかりか現地進行協議という現場視察の案内役まで務めました。この第2次訴訟では、県営林の伐採と林道開設が問題となり、結果的には林道開設も止まり、県営林の皆伐も止まるという、実質勝訴を勝ち得ました。詳しいいきさつは、2015年3月20日付けのブログ「実質勝訴・やんばる訴訟」を参照してください。これでやんばるの森林伐採が全てが止まるかと言えばそうではありません。第2次訴訟中に一連の林道開設と皆伐に反対の世論が高まり、それを受けて県営林(国有林の土地を沖縄県が無償で借り受け、管理・運営する森林)の皆伐や林道開設は中止になったものの、その効力は県営林のみに度々まり、国頭村が所有する村有林にはその効力は及びません。そのため以後は村有林の伐採が顕在化してきました。村有林の伐採も補助金漬けの事業ですから、そこに様々な落とし穴があります。第3次訴訟では、かつて造成された土地が利用されずに放置されていた土地を森林へと機能回復させるための事業に関するものでした。この事業自体はそれほど大きな問題を含んでいるわけではないのですが、この事業を故意に拡大解釈したか、元々森林だった所を伐採して、この補助金を受けて植林をするという事例が少なからず存在します。補助金交付の目的は「機能回復」ですから「かつて植林した樹木の生育が不良な土地もしくは耕作放棄地」などでなければこの補助金は利用できません。ところが、立派な森林だった所をこの補助金を使って伐採してしまった例が宇良地区でみつかったのです。そこで住民(原告)は適正な審査をせずに補助金を支出した沖縄県知事に対して、支出した補助金の返還を命じるよう求める監査請求を行い、それが棄却された後に住民訴訟提訴したということです。
- 証人尋問
さていよいよ証人尋問がどのようなものなのかを体験に基づいて報告します。まず、最初に書記官から証人カードの記入を求められます。住所・氏名・生年月日・年連を記入し、押印をします。これは人定尋問を簡略化することにも利用されます。証人カードとは別に「旅費・宿泊費請求辞退書」、つまり、裁判所は旅費も宿泊費も負担しません、という確認のための書面に署名捺印をして提出します。原告側の要求によって実施される証人喚問なので、こうした経費は原告側が負担することになっているようです。これで開廷まえの手続きは終わり、まもなく第1回口頭弁論が始まります。
今回の証人尋問は、原告側一人(金井塚)と被告側(県職員)一人で、私への尋問時間は主尋問(原告側代理人からの)30分、反対尋問(県側からの)30分の予定です。
午後2時。3名の裁判官が入廷し、開廷を宣言します。そこで今日は、証人尋問を行うことが告知されます。裁判長に促されて、証人台の前で、証人二人それって以下のような宣誓文を読み上げるよう、もとめられます。
宣誓 良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。(全ての漢字にふりがながふってあります)
宣誓文の朗読が終わると、証人席にすわるよう促されます。証人席はドラマでもおなじみのように裁判長の真ん前に対座するように設置されています。証人席に着座するとまず初めに証言に際せての注意事項が告げられます。
「質問をよく聞き質問が終わってから、簡潔に答えること」 「はい、いいえ、」で答えられるものにはそのように答えること。といった注意が告げられ、いよいよ尋問に入ります。
まずは裁判長からの人定尋問ですが、「先に提出した証人カードの記載に間違いないですか?」「はい」で終了。実に簡単なものです。続いて原告側代理人からの主尋問が始まります。
法廷での証言などというと、厳かな雰囲気の中で緊張するのではないかと思うかもしれませんが、そんなことはありません。原告側代理人(弁護士)とは長い付き合いでもあり、証人尋問の構成など何度も打ち合わせをしてあります。原告が証人尋問を通じて主張したいことは、補助金が支出された土地が伐採の必要の無い土地、つまり立派な森林であったことを主張するためです。そのこと明らかにして、補助金の支出が違法であったことを立証するのが目的ですから、調査報告書とその解説をした証拠文書(甲71号証)に基づいての質問が主になります。
まずは、調査者である証人(私)が主体となって実施した調査とその報告書が信ずるに足るものかどうかを裁判官に理解してもらうことから始まります。つまり専攻。経歴などを確認するための質問がそれに当たります。そしていよいよ、具体的な内容に関する質問に入り、伐採された地域が立派な森林で、伐採して新たに植林する必要のない場所であったことを証言することになります。具体的には証拠として提出済みの「伐痕調査報告書」に記載されているグラフや表の見方などを解説し、「樹種の多様性」「樹齢の多様性」、「立木密度(740本/ha」のどれをとってもやんばるにある立派な森林だったことを証言しまた。こうしてあっという間に30分が過ぎ、続いて反対尋問が始まります。どんな質問があるのか楽しみにしていたのですが、反対尋問はたった二つ。
「森林生態学という専攻には何か資格が必要ですか?」「いいえ」ともう一つは記憶に残らないほどつまらないものでした。1分もかからなかったのです。つまり、事実関係については、係争地がかつて森林であったという原告側の主張を認めざるを得なかったのだと思います。つまり事実関係は争わず、係争地を取り巻く地域が造成未利用地手あることを盾に行政の裁量権を認めてもらう戦略に出たのだと推量します。最後に裁判官からの質問がありました。
裁判官の質問は、「伐採地にかつて利用された痕跡がないとのことですが、なぜそう言えるのか教えてください」といった内容のものだったように記憶しています。それには「かつて人が入植して居住や耕作をしていたとすれば、石垣などで平坦地をつくるのが必須ですが、そのような痕跡が全くなく、斜面を掘削した痕跡も皆無、炭焼き窯などのあとも道路跡も見られない」ことから、未造成地、すなわち自然地形に成立した森林だったというように答えたと記憶しています。
こうして、控訴審の第1回口頭弁論は終了し、9月28日に判決が言い渡される予定となっています。地裁での一審判決があまりにひどいもので、行政の裁量を過大に評価し、原告側の主張を無視したもので、申請した証人尋問もしないままの判決でしたが、高裁での控訴審では、事実か確認のためには証人尋問は必要とのことで行われたものです。首尾は上々でしたが、第1回甲訥弁論直前に裁判長が交代するなど、不安材料はあります。どのような判決が言い渡されるかわかりませんが、原告側が恐れるのは、「事実は原告の主張通りではあっても、規模の点から見ても行政の範囲内」で控訴棄却という判断です。
だとすれば、補助金支出に関して国が定めた実施要領も県の補助金等の交付に関する規則にも背くことになります。まさに法が有っても無いがごときの裁量権ということになります。
タイ旅行の思い出 1
今、BS日テレでタイを鉄道で縦断する旅を放映しているのを見て、なんだか懐かしくなった。ここ10年ほどはタイを訪れていないが、これまでに10回ほど通った国である。その最初が2002年9月下旬のことだった。流れる映像と記憶に残る映像に多少のギャップがあって面白い。20年といえば、軽く二昔。日進月歩の今日ではそれどころではない変化が画面を通して実感できる。
そもそも何故タイへ出かけていったのか? 2002年は事情があって25年務めた会社を辞め、少しばかり暇な時間を持てるようになっていた。そこへ大学の卒論の資料集めと称して、タイ旅行を画策していた娘の口車にのって出かけることになったという訳である。
条件はだだ一つ。カオヤイ国立公園を旅程に組み入れることで交渉は成立。
2002年9月23日から10月2日まで11日間、目的地は、カオヤイ国立公園、スコータイ遺跡巡り、チェンマイでの少数民族探訪を飛行機とバス、鉄道を利用して巡り歩いた。
その道中記を当時を思い出しながら綴って見ることにする。
第一回は 関空ータイ(ドンムアン空港)―バンコク市内(泊)ー(バス)ープラチンブリ(泊)
まで。

2002年当時は関西空港を早朝に出発するバンコク(ドンムアン空港)経由シンガポール行きの便があったのでそれを利用しての旅であった。夜行バスで天王寺へ行き、そこから南海電鉄で関空まで行ったと記憶している。この便だと午後の早い時間にバンコクへ着ける。ドンムアンからバンコク市内までは普通、タクシーを利用するようだが、鉄道に乗りたくてタクシーの客引きを断った。周りを見渡しても鉄道を利用する人はほとんどいない。駅でバンコクまでの切符をかったのだが、その値段に驚いた。たった5バーツだという。当時のレートは1バーツ=3円ほどだから、バンコクまで一人15円ほどしかかからない。


写真の右下の欄に5バーツと印字されている。鉄道運賃がこれほど安いのは国の政策として補助金が投入されているからだという。人と物資の輸送は国の義務ということらしい。とはいえ、今日ではハイウエイが整備され車での物資輸送が主流になっている。
運賃は安いが運行時間の正確さは日本のそれと比べれば雲泥の差がある。時刻表は目安にしか過ぎない。待てども待てども列車は来ない。蒸し暑いホームで待ちくたびれた頃やっと到着。のんびりとした列車旅が始まった。田園地帯を抜け、バラックの密集する町をいくつか過ぎて、列車は終点のポアランポーン(バンコク)駅に到着した。首都のターミナル駅にふさわしい駅舎に見惚れる。改札口があるわけでもなく、広々としたコンコースを抜けると、そこはもうバンコクの市街地だった。

この日は駅近のバンコクホテルに宿泊。翌日はカオヤイ国立公園を目指してのバス旅なので夕ご飯は、タイスキと無難な選択。

カオヤイ国立公園方面のバスは市内北部のバスターミナルから。プラチンブリにあるパームガーデンロッジという(今は同じ名前のリゾートホテルがある)個人経営のこぢんまりとしたロッジへ予約をいれておいた(なんとか使えるインターネットを利用して)。
バンコクからどこ行きのバスに乗ればいいのかわからないが、確か北部バスターミナルの○○番のバスに乗り、ロッジのHPにタイ語で描かれているものをプリントアウトしたものを運転手に見せれば、入り口近くで下ろしてくれるとのこと。タイ語で書かれたものなのでどのように発音するのかも皆目わからず、どうも危なっかしいがとりあえず言われたとおりするしかない。バスターミナルへいって、案内人にプリントを見せると、乗るべきバスを教えてくれた。使い古したポンコツ感満載のバスである。もちろんエアコンなどない。今でこそエアコンの効いた最新型のバスが当たり前であるが、20年前にはこれが普通であった。



発車前に再度、運転手に印刷物を見せるとOKとの返事。ここから2時間ちょっとのバス旅が始まった。




雨期がはじまっており、街道沿いの水田はほぼ水没するくらいに水をたたえていた。2時間ほどたったころだろうか。バスは給油のために立ち寄ったガスステーションで驚くべきものを見つけた。

これがそれだ。慌ててカメラのシャッターを切った。センザンコウの剥製が無造作に柱に掲げられていたのだ。 これも密猟されたものなのだろか、それとも法規制以前に捕獲されたものなのだろうか。よくわからないが、とにかくびっくりな遭遇であった。
給油を済ませたバスはやがて家並みが続く町中へ入っていく。まもなく目的地らしい雰囲気を感じるが、確信はもてない。バスはランアンアバウトの交差点を右に入る。このあたりから、不安が頭をよぎる。目的地はあの交差点を直進する方角なのではないかという漠然とした不安である。もちろん根拠はない。そこでもう一度、運転手に例のプリントを見せると、オゥ、といってそのあと、OKOKとのジェスチャーをみせる。バスは町中に入ると前方からもバスが。運転手氏は、対向してきたバスに合図を送って、止めると、運転手同士で何やら話をしている。その話が終わると、ここであのバスに乗り換えろという。何人かが協力して私たちの荷物を積み替えてくれた。みんな良かった良かったというような笑顔で送り出してくれた。きた道を引き換えることに、乗り換えたバスはさらに老朽化した車体で、フロントガラスには大きなひびが入っているのがすごい。それでもかなりのスピードで街道を疾駆するのだからすごい。やがて件の交差点へ、そこを右折、つまり予想していた方向へと向かった。しばらくするとバスは止まり、この道を行けば目的の宿だと教えてくれた。私たち二人は、荷物を受け取り、砂利道を200メートルほど歩いて無事宿に着くことができた。


宿のマダム(数ヶ月前に旦那さんが亡くなったとのこと)が出迎えてくれて、うどんをご馳走してくれた。ワンタンの様な幅広の米の麺(センヤイ)がおいしかった。一休みして、カオヤイ国立公園へ向かうことになるが、今日の話はここまで。続きをお楽しみに。


