生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

ツキノワグマ問題を考える-真の原因は?

柿の木に登るクマ 2004年

 テレビでも新聞でも今年のクマによる人身被害が頻発しているとの報道が相次いでいる。特にテレビでは同じ画像を繰り返し、視聴者の恐怖心をあおることに腐心しているかのようだ。それに対して、山の実りの不作が原因との識者のコメントが寄せられている。
確かに、堅果類の不作は原因の一つかもしれないが、堅果類の不作は今に始まったことではない。むしろ豊作である方が少ないほうが当たり前なのだ。

 クマの市街地出没は今に始まったことではなく、1970年以降、その傾向が始まり、今日の状況は予想されていたことである。が、環境省自治体も経済効果のない自然保全には目を向けることはなかった。
 広島県では1990年代にクマの中山間地域への出没が顕著になり、それに関するフォーラムが開催されるようになった。そこで一つの解決策として、「実はクマに、材は人に」というスローガンのもと旧戸河内町では、クリの植栽を進めたが、その効果は得られていないようだ。こうした流れの中で、環境省主導で特定鳥獣の保護管理計画が策定され、西中国山地ツキノワグマの保護管理計画は広島、島根、山口の三県が共同して策定された。

 西中国山地ツキノワグマ保護管理計画(現在は管理計画)は西中国山地個体群を対象としており、行政区分を越えて協働することは他の都道府県にはない大きな特徴がある。この計画は、三県のツキノワグマ対策協議会が策定することになっているが、その実質的な議論は、科学部会が担っていることに大きな意味がある。このこと自体は大変いいことなのであるが、しかし限界もある。議論の中身がほぼ「個体数管理」にかたよっており、いわゆるゲームマネッジメント的な議論となってしまっている。

 クマだけではなく、多くの森林棲哺乳類の暮らしの場である森林は、1960年代の大面積皆伐、拡大造林やダム開発、砂防堰堤の設置、河川の護岸、浅海の埋め立てなど開発重視の結果、大きく多様性と生産力が失われてきて今日に至っている。つまり、かつて豊かだった森林は姿を大きく変え、緑色の砂漠のような生きものの暮らしにくい場へと変容してしまった。それに加えて、都市部への人口流出が加わり、過疎地がひろがってきた。その傾向は1970年代にはかなり顕著となり、それは今も留まることなく続いている。

 人が利用しなくなった森林(里山の二次林)や農地(果樹や農作物)のなどの生産物は、野生動物が利用するようになったからで、生態学的には当たり前の現象なのだ。つまりクマの生活域は集落周辺の二次林を中心とした人里近くに集中し、かつての奥山での生息密度は低下している可能性が高い。いわゆるドーナツ化が進行しているのが実態なのだ。

 次の写真は、そんな状況を広島市安佐動物公園の機関誌「すづくり 2022年3月号」に寄稿したものである。

 クマによる人身被害の原因を、個体数増加と猛暑による餌不足という皮相的な捉え方では問題の解決にはならないと考えている。西中国山地ツキノワグマ管理計画を審議する科学部会においても、個体数管理から脱却して、森林生態系-河川生態系ー海洋生態系を含む流域生態系に目を向けた生物多様性とそれに依存する生物生産力の回復を目的とする議論とそれに基づく効果的な対策、すなわち予算の裏付けのある実効ある計画の策定が求められている。それなくしては、クマによる人身被害はクマが絶滅するまで無くならないだろう。

 

タイ旅行の思い出 2 初めてのカオヤイ国立公園

 バスを乗り継いでなんとか無事、宿泊予定のパームガーデンロッジへたどり着いて、腹ごしらえも済んだところで、いざ、カオヤイ国立公園へ。マダムが運転する車で、ひたすら北へ向かって走る。カオヤイとは広大な山というほどの意味らしいが、まだその山は遠くにあり、平原をひた走る。とやがて道は公園入り口のゲート(サウスチェックポイント)にさしかかる。ここで入園手続きをすませて、車はさらに先へ。ここから道は徐々に上り勾配となり、森林地帯を駆け上がる。周辺の森林は日本の照葉樹林とどこか似ていてどこか違っている。時期が雨期でもあったので、湿度の違いは肌で感じることもできた。しかしここまで標高が上がってくると、蒸し暑さはそれほどでもない。むしろ空気はひんやりとしている。夕方近くということもあって、この日は中央ハイウエイ沿いをヴィジターセンタまでをドライブするだけ。広大な公園を南北に貫くハイウエィを走っていると所々にゾウのフンが転がっている。すこし興奮気味になっていると突然マダムが「チャーン」と叫ぶ。道ばたにゾウがたっている。牙はまだそれほど伸びていないの若いオスだ。左耳たぶに大きな破れがある。しばらく野生のゾウに見とれていると、やがてゆっくりと森の中へ消えていった。下見の下見旅の途中で、若いオスのゾウに出会うという幸運に恵まれた。このオスは7年後ににも再会することになる。

 しばらく周辺で痕跡を観察してみると、足跡やフン、なぎ倒された樹木などが見つかった。確かな生活痕に軽い興奮を覚えるが先を急ぐ。もう日が傾き掛けている。

 この日は途中、ヘオ・ナロックの滝に立ち寄ってヴィジターセンタ―まで行って、帰ってきた。雨期のカオヤイ国立公園は厚い雲が低く立て込めていた。今にも大粒の雨が落ちてきそうだ。この日出会えた野生動物は、ブタオザルとホエジカだけだったが、明日のトレッキングでの出会いが期待できそうな予感がした。とはいえ、この時はまだ、その後約10年のカオヤイ国立公園通いが始まることは夢想だにしていなかった。

夕暮れ前に湖畔のレストランで夕食をとり、宿へ。

 

まだまだ、続く。

 





 

 

第3次命の森やんばる訴訟ー証人尋問

伐痕調査風景

 2023年6月9日木曜日、午後2時、福岡高裁那覇支部において表記訴訟の第1回口頭弁論が開かれ、原告側証人として法廷で証言してきましたのでそのときの様子について報告します。

  1. 第3次命の森やんばる訴訟とは

 沖縄島北部のやんばると呼ばれる森林は、本土復帰以後、大規模な林道開設と森林破壊が問題となっていました。詳しいことはここでは述べませんが、本土復帰に際し、沖縄経済振興事業の一環として補助金を投下するための名目事業として、森林開発がその根底にあったということです。私がこの訴訟に関わったのは、第2次命の森やんばる訴訟からですが、この訴訟でも証人として法廷に立ちました。そればかりか現地進行協議という現場視察の案内役まで務めました。この第2次訴訟では、県営林の伐採と林道開設が問題となり、結果的には林道開設も止まり、県営林の皆伐も止まるという、実質勝訴を勝ち得ました。詳しいいきさつは、2015年3月20日付けのブログ「実質勝訴・やんばる訴訟を参照してください。これでやんばるの森林伐採が全てが止まるかと言えばそうではありません。第2次訴訟中に一連の林道開設と皆伐に反対の世論が高まり、それを受けて県営林(国有林の土地を沖縄県が無償で借り受け、管理・運営する森林)の皆伐や林道開設は中止になったものの、その効力は県営林のみに度々まり、国頭村が所有する村有林にはその効力は及びません。そのため以後は村有林の伐採が顕在化してきました。村有林の伐採も補助金漬けの事業ですから、そこに様々な落とし穴があります。第3次訴訟では、かつて造成された土地が利用されずに放置されていた土地を森林へと機能回復させるための事業に関するものでした。この事業自体はそれほど大きな問題を含んでいるわけではないのですが、この事業を故意に拡大解釈したか、元々森林だった所を伐採して、この補助金を受けて植林をするという事例が少なからず存在します。補助金交付の目的は「機能回復」ですから「かつて植林した樹木の生育が不良な土地もしくは耕作放棄地」などでなければこの補助金は利用できません。ところが、立派な森林だった所をこの補助金を使って伐採してしまった例が宇良地区でみつかったのです。そこで住民(原告)は適正な審査をせずに補助金を支出した沖縄県知事に対して、支出した補助金の返還を命じるよう求める監査請求を行い、それが棄却された後に住民訴訟提訴したということです。 

  1. 証人尋問

 さていよいよ証人尋問がどのようなものなのかを体験に基づいて報告します。まず、最初に書記官から証人カードの記入を求められます。住所・氏名・生年月日・年連を記入し、押印をします。これは人定尋問を簡略化することにも利用されます。証人カードとは別に「旅費・宿泊費請求辞退書」、つまり、裁判所は旅費も宿泊費も負担しません、という確認のための書面に署名捺印をして提出します。原告側の要求によって実施される証人喚問なので、こうした経費は原告側が負担することになっているようです。これで開廷まえの手続きは終わり、まもなく第1回口頭弁論が始まります。

 今回の証人尋問は、原告側一人(金井塚)と被告側(県職員)一人で、私への尋問時間は主尋問(原告側代理人からの)30分、反対尋問(県側からの)30分の予定です。

午後2時。3名の裁判官が入廷し、開廷を宣言します。そこで今日は、証人尋問を行うことが告知されます。裁判長に促されて、証人台の前で、証人二人それって以下のような宣誓文を読み上げるよう、もとめられます。

宣誓 良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。(全ての漢字にふりがながふってあります)

 宣誓文の朗読が終わると、証人席にすわるよう促されます。証人席はドラマでもおなじみのように裁判長の真ん前に対座するように設置されています。証人席に着座するとまず初めに証言に際せての注意事項が告げられます。

 「質問をよく聞き質問が終わってから、簡潔に答えること」 「はい、いいえ、」で答えられるものにはそのように答えること。といった注意が告げられ、いよいよ尋問に入ります。

 まずは裁判長からの人定尋問ですが、「先に提出した証人カードの記載に間違いないですか?」「はい」で終了。実に簡単なものです。続いて原告側代理人からの主尋問が始まります。

 法廷での証言などというと、厳かな雰囲気の中で緊張するのではないかと思うかもしれませんが、そんなことはありません。原告側代理人(弁護士)とは長い付き合いでもあり、証人尋問の構成など何度も打ち合わせをしてあります。原告が証人尋問を通じて主張したいことは、補助金が支出された土地が伐採の必要の無い土地、つまり立派な森林であったことを主張するためです。そのこと明らかにして、補助金の支出が違法であったことを立証するのが目的ですから、調査報告書とその解説をした証拠文書(甲71号証)に基づいての質問が主になります。

 まずは、調査者である証人(私)が主体となって実施した調査とその報告書が信ずるに足るものかどうかを裁判官に理解してもらうことから始まります。つまり専攻。経歴などを確認するための質問がそれに当たります。そしていよいよ、具体的な内容に関する質問に入り、伐採された地域が立派な森林で、伐採して新たに植林する必要のない場所であったことを証言することになります。具体的には証拠として提出済みの「伐痕調査報告書」に記載されているグラフや表の見方などを解説し、「樹種の多様性」「樹齢の多様性」、「立木密度(740本/ha」のどれをとってもやんばるにある立派な森林だったことを証言しまた。こうしてあっという間に30分が過ぎ、続いて反対尋問が始まります。どんな質問があるのか楽しみにしていたのですが、反対尋問はたった二つ。

「森林生態学という専攻には何か資格が必要ですか?」「いいえ」ともう一つは記憶に残らないほどつまらないものでした。1分もかからなかったのです。つまり、事実関係については、係争地がかつて森林であったという原告側の主張を認めざるを得なかったのだと思います。つまり事実関係は争わず、係争地を取り巻く地域が造成未利用地手あることを盾に行政の裁量権を認めてもらう戦略に出たのだと推量します。最後に裁判官からの質問がありました。

 裁判官の質問は、「伐採地にかつて利用された痕跡がないとのことですが、なぜそう言えるのか教えてください」といった内容のものだったように記憶しています。それには「かつて人が入植して居住や耕作をしていたとすれば、石垣などで平坦地をつくるのが必須ですが、そのような痕跡が全くなく、斜面を掘削した痕跡も皆無、炭焼き窯などのあとも道路跡も見られない」ことから、未造成地、すなわち自然地形に成立した森林だったというように答えたと記憶しています。

 

 こうして、控訴審の第1回口頭弁論は終了し、9月28日に判決が言い渡される予定となっています。地裁での一審判決があまりにひどいもので、行政の裁量を過大に評価し、原告側の主張を無視したもので、申請した証人尋問もしないままの判決でしたが、高裁での控訴審では、事実か確認のためには証人尋問は必要とのことで行われたものです。首尾は上々でしたが、第1回甲訥弁論直前に裁判長が交代するなど、不安材料はあります。どのような判決が言い渡されるかわかりませんが、原告側が恐れるのは、「事実は原告の主張通りではあっても、規模の点から見ても行政の範囲内」で控訴棄却という判断です。

 だとすれば、補助金支出に関して国が定めた実施要領も県の補助金等の交付に関する規則にも背くことになります。まさに法が有っても無いがごときの裁量権ということになります。

タイ旅行の思い出 1

 今、BS日テレでタイを鉄道で縦断する旅を放映しているのを見て、なんだか懐かしくなった。ここ10年ほどはタイを訪れていないが、これまでに10回ほど通った国である。その最初が2002年9月下旬のことだった。流れる映像と記憶に残る映像に多少のギャップがあって面白い。20年といえば、軽く二昔。日進月歩の今日ではそれどころではない変化が画面を通して実感できる。

 そもそも何故タイへ出かけていったのか? 2002年は事情があって25年務めた会社を辞め、少しばかり暇な時間を持てるようになっていた。そこへ大学の卒論の資料集めと称して、タイ旅行を画策していた娘の口車にのって出かけることになったという訳である。

条件はだだ一つ。カオヤイ国立公園を旅程に組み入れることで交渉は成立。

2002年9月23日から10月2日まで11日間、目的地は、カオヤイ国立公園、スコータイ遺跡巡り、チェンマイでの少数民族探訪を飛行機とバス、鉄道を利用して巡り歩いた。

 その道中記を当時を思い出しながら綴って見ることにする。

第一回は 関空ータイ(ドンムアン空港)―バンコク市内(泊)ー(バス)ープラチンブリ(泊)

まで。

 2002年当時は関西空港を早朝に出発するバンコク(ドンムアン空港)経由シンガポール行きの便があったのでそれを利用しての旅であった。夜行バスで天王寺へ行き、そこから南海電鉄関空まで行ったと記憶している。この便だと午後の早い時間にバンコクへ着ける。ドンムアンからバンコク市内までは普通、タクシーを利用するようだが、鉄道に乗りたくてタクシーの客引きを断った。周りを見渡しても鉄道を利用する人はほとんどいない。駅でバンコクまでの切符をかったのだが、その値段に驚いた。たった5バーツだという。当時のレートは1バーツ=3円ほどだから、バンコクまで一人15円ほどしかかからない。

 写真の右下の欄に5バーツと印字されている。鉄道運賃がこれほど安いのは国の政策として補助金が投入されているからだという。人と物資の輸送は国の義務ということらしい。とはいえ、今日ではハイウエイが整備され車での物資輸送が主流になっている。

 運賃は安いが運行時間の正確さは日本のそれと比べれば雲泥の差がある。時刻表は目安にしか過ぎない。待てども待てども列車は来ない。蒸し暑いホームで待ちくたびれた頃やっと到着。のんびりとした列車旅が始まった。田園地帯を抜け、バラックの密集する町をいくつか過ぎて、列車は終点のポアランポーン(バンコク)駅に到着した。首都のターミナル駅にふさわしい駅舎に見惚れる。改札口があるわけでもなく、広々としたコンコースを抜けると、そこはもうバンコクの市街地だった。

 

 この日は駅近のバンコクホテルに宿泊。翌日はカオヤイ国立公園を目指してのバス旅なので夕ご飯は、タイスキと無難な選択。

 

 カオヤイ国立公園方面のバスは市内北部のバスターミナルから。プラチンブリにあるパームガーデンロッジという(今は同じ名前のリゾートホテルがある)個人経営のこぢんまりとしたロッジへ予約をいれておいた(なんとか使えるインターネットを利用して)。

バンコクからどこ行きのバスに乗ればいいのかわからないが、確か北部バスターミナルの○○番のバスに乗り、ロッジのHPにタイ語で描かれているものをプリントアウトしたものを運転手に見せれば、入り口近くで下ろしてくれるとのこと。タイ語で書かれたものなのでどのように発音するのかも皆目わからず、どうも危なっかしいがとりあえず言われたとおりするしかない。バスターミナルへいって、案内人にプリントを見せると、乗るべきバスを教えてくれた。使い古したポンコツ感満載のバスである。もちろんエアコンなどない。今でこそエアコンの効いた最新型のバスが当たり前であるが、20年前にはこれが普通であった。

 発車前に再度、運転手に印刷物を見せるとOKとの返事。ここから2時間ちょっとのバス旅が始まった。

 雨期がはじまっており、街道沿いの水田はほぼ水没するくらいに水をたたえていた。2時間ほどたったころだろうか。バスは給油のために立ち寄ったガスステーションで驚くべきものを見つけた。

 これがそれだ。慌ててカメラのシャッターを切った。センザンコウの剥製が無造作に柱に掲げられていたのだ。 これも密猟されたものなのだろか、それとも法規制以前に捕獲されたものなのだろうか。よくわからないが、とにかくびっくりな遭遇であった。

 給油を済ませたバスはやがて家並みが続く町中へ入っていく。まもなく目的地らしい雰囲気を感じるが、確信はもてない。バスはランアンアバウトの交差点を右に入る。このあたりから、不安が頭をよぎる。目的地はあの交差点を直進する方角なのではないかという漠然とした不安である。もちろん根拠はない。そこでもう一度、運転手に例のプリントを見せると、オゥ、といってそのあと、OKOKとのジェスチャーをみせる。バスは町中に入ると前方からもバスが。運転手氏は、対向してきたバスに合図を送って、止めると、運転手同士で何やら話をしている。その話が終わると、ここであのバスに乗り換えろという。何人かが協力して私たちの荷物を積み替えてくれた。みんな良かった良かったというような笑顔で送り出してくれた。きた道を引き換えることに、乗り換えたバスはさらに老朽化した車体で、フロントガラスには大きなひびが入っているのがすごい。それでもかなりのスピードで街道を疾駆するのだからすごい。やがて件の交差点へ、そこを右折、つまり予想していた方向へと向かった。しばらくするとバスは止まり、この道を行けば目的の宿だと教えてくれた。私たち二人は、荷物を受け取り、砂利道を200メートルほど歩いて無事宿に着くことができた。

 宿のマダム(数ヶ月前に旦那さんが亡くなったとのこと)が出迎えてくれて、うどんをご馳走してくれた。ワンタンの様な幅広の米の麺(センヤイ)がおいしかった。一休みして、カオヤイ国立公園へ向かうことになるが、今日の話はここまで。続きをお楽しみに。









 





 



 

吉和トラスト候補地探訪

 このところの座骨神経痛に加えて、諸般の事情からフィールドワークから少しばかり遠ざかっていたが、久しぶりに吉和(廿日市市)の山林を探索する機会を得た。この山林はこれまで歩いてきた細見谷渓畔林とは全く趣を異にした明るい二次林(いわゆる里山)なのだが、それが武蔵野の雑木林を連想させ、なにかほのぼのとした感覚を呼びおこす。名目はさる団体のトラスト候補地としての調査ということなのだが、ヤマザクラもまもなく満開。まるで春の行楽気分だ。

 すこし早めに集合場所に着いたので、吉和の景観を楽しむことに。水路を流れる水音とその透明度が陽光に輝いて、春らしさを際立たせている。左手になだらかな山容の女鹿平山、正面には立岩山系その間をぬって流れる太田川には、アマゴ目当ての釣り人が竿を振っている。その川の向こう側のなだらかな斜面に候補地がある。

 山腹の広葉樹林はライトグリーンの新緑がのどかな風景を演出している。田植え前の水を張った田んぼからはちょっと寂しいながらもカエルの鳴き声も聞こえてくる。そのカエルたちを狙ってか、シマヘビがお出ましだ。

 そうこうしているうちに全員集合。

トラスト候補地へ 

 車を降りると、目の前にアケビの花が目に飛び込んできた。幸先が良さそうだ。写真を撮ってあたりを見回すと、小さなうす黄色の花をつけたシロモジ(クスノキ科)を見つけた。広島大学名誉教授の関太郎さんによれば、シロモジはソハヤキ(襲早紀≒西南日本外帯)型の分布をする典型的な樹種として知られており、広島県内での生育は注目に値する樹木であるという(広島県植物誌)。先端が三裂している葉が特徴的。そのシロモジが群落をなしている。かなり面白い二次林なのだ。そしてもう一つ、ウワミズザクラとおぼしき幼樹がこれまた群落をなしている。もしこれが間違いなくウワミズザクラであれば、近い将来、クマの夏の採食地として大変重要な地域になるに違いない。尾根筋にはアカマツが残存しているが、斜面はクリ、コナラが優占する明るい二次林でこちらも秋の実りがクマにとって価値ある森となりそうだ。

註)ソハヤキとは、熊吸の瀬戸、伊半島のこと。おおよそ西南日本外帯に一致する地域



そしてこの明るい林床にはフデリンドウがそこかしこで小さな薄紫の花を咲かせている。実はこのフデリンドウ、私にとって初見の花なので少しばかり興奮した。トラスト地境界付近の沢筋にはケヤキの大木も。

 かつては、吉和集落周辺の山の上部にはイヌブナが、その下部にはクリが優占する森林が広がっていて、クマをはじめとする野生動物が暮らしていたという。戦後復興の名の下に、クリの巨樹は鉄道の枕木とするために大量に伐採され、イヌブナの林はほぼスギの人工林に置き換わってしまった。そうした森林の変化は当然野生動物の暮らしを破壊したことは容易に想像される。今日の獣害問題の根本は、工業化社会に向けての自然改変にあることは疑う余地がない。農業を自然のサイクルから切り離し、工業化へと邁進する流れは、持続可能性を放棄する流れでもある。農業が持続可能なものとして生き残るためには、生物的自然を基礎とした循環型な産業へと再生させる必要があり、そのためには生物(学的)多様性を再生させるためのストックの保存が必須である。その意味では、小さな面積であっても、トラスト地として、ストックを保存することは、大変大きな意味があると思う。もちろんこうしたトラスト運動のような事業は本来国が音頭をとって進めるべきもであることは言うまでもないが、国が腰を上げない以上、民間の有志が立ち上がるしかない。



 さて、このトラスト候補地を歩いていて、一つ気になることが見つかった。それが写真にあるリョウブの樹皮食い痕である。多雪地帯である吉和地区にはこれまでシカは生息していないとみられていた。ただ2017年には細見谷で初めてシカの姿が捉えられた。https://syara9sai.hatenablog.com/entry/2017/09/17/163312

その後もポツポツとシカの姿がVTRカメラに捉えられるようになった。そうした事実からすると、ここにシカが現れた可能性も否定はできない。樹皮食いのあったリョウブの傍らには、角を絡めた痕(角研ぎ)ののこるアセビや小さいながらもシカとおぼしきフンも見つかったので、疑わしくもあるが、シカが活動していたことがうかがわれる。


 いずれにしても、ここがトラスト地として保全の対象となることを願ってやまない。

大規模再エネ事業か、それとも美しい農村風景かー農村の未来を問う2 加美町

 

加美町風力発電建設地―撮影:日本熊森協会本部 水見竜哉

 宮城県北西部に位置する加美町は、奥羽山脈の東縁に位置し、農業を主産業とする町である。鳴瀬川とその支流である田川に挟まれた地域には平坦な堆積層が広がり水田地帯となっている。どこか砺波平野の散居村を思わせる景観が広がる農村地帯である。この町のシンボルである薬莱山は加美富士とも呼ばれる独立峰で平野の中に屹立する姿は心を揺さぶるものがある。そんなのどかな加美町ではあるが、少し前からきな臭い匂いが立ちこめるようになったとのことだ。こけしで有名な鳴子(宮城県大崎市)との境となる地域一帯に大規模風力発電計画が持ち上がり、一部ではすでに工事が始まっている。地元ではこの計画に疑問を感じた有志が「加美町の未来を守る会」を始めとする市民団体が建設反対の声を上げて活動している。その一環として、環境法律家連盟と再エネ問題全国連絡会合同でのシンポジウムが開催された。私も、「この森林破壊は問題だ」というタイトルで話をしたのだが、30分という短い時間でもあり、豊かな暮らしをするための自然の価値については十分伝わったかどうかいささか不安であった。とはいえ、このシンポジウムは市川守弘弁護士の問題点の指摘もさるものの、室谷弁護士の「加美町が、風力発電事業者と交わしていた町有地の利用に関する地上権設定契約について、明らかに他地域の自治体とは異なるような、問題ある契約である」ことの指摘は参加者に大きな衝撃を与えたようであった(シンポジウムの内容は(FB:加美町の未来を守る会・環境法律家連盟のページを参照)

 シンポジウムに先立つ現地視察では、残念なことに工事現場へ足を踏み入れることができなかったが、これまでの工事現場での様子(上の写真)を見る限り、森林生態系にかなり深刻なダメージを与えることはまず間違いない。

 工事現場周辺は、溶結凝灰岩の様なもろい土質(上の写真)にミズナラ、コナラが優先する落葉樹林が生育しており、かつては薪炭林として利用されていたようだ。樹齢は若く、風の影響もあるのか樹高が低い。見晴らしの良い場所にたってみると、かつてのブナ林がわずかに残っている。

 ここは、漆沢ダムの堤体(ロックヒルダム=石を積んで堤体とする)に利用することを目的とした石切場であったというが、岩質が脆く、使用に耐えないということで事業はとまった現場だという。

漆沢ダム-この向の尾根筋に強大な風車群が林立するという

 このような土質の尾根筋に道路を切り開けば、土石流や斜面崩落が生じることは大いに予測される。さらに問題なのは、埋土種子など森林再生のストックとなる表土層を削り取ることは森林再生を疎外する大きな要因ともなるし、吹き抜ける風による森林内の乾燥化の原因ともなる。こうした乾燥化の進行は林縁部の樹木群の枯死を招き、さらなる森林破壊をもたらすであろう。

現場付近のの若い二次林。

遠くにブナ林が見える。かつてはこのようなブナの林が広がっていたのだろうか

 そしてほとんどの住民がまだ気がついていないような問題が私には気にかかっている。加美町の住民の多くは平野部に暮らしており、山の変化にはそれほど敏感ではなさそうなのだ。確かに土石流や低周波といった直接被害をもたらすであろう問題には関心を持っているのだが。このような森林破壊が続けば近い将来必ず獣害(クマの出没)が目に見える形で頻発するようになるにちがいない。加美町の農村風景は、どこか砺波平野の散居村を思わせる景観だと描いたが、今、その富山の農村ではクマの出没が相次いでいる。宮城県のクマの生息状況の詳しいことはわからないが、県が発表している出没状況は西中国山地での傾向とよく似てきている。

 宮城県(2005-2020)と広島県(2003-2020)とのクマの月別出没状況を見比べてみると、明らかに同じ傾向を示しており、近年は春~夏にかけても市街地周辺に出没する傾向が強くなっている(加美町は第四期宮城県ツキノワグマ管理計画の管理区分で重点区域となっている)。これは、森林の生産力の減退とともにクマの生活様式が変化し、人工的な食資源に依存する傾向が強まっていることの表れと私は見ている。じつはこうした傾向は1990年代から始まっていたのだが、最近では生息域の拡大(中核的生息知からの分散)が顕著になっている。加美町の平野部でもその傾向は徐々に出始めているのではないだろうか。奥山の生物多様性とそれを基盤とした生産力の回復もなく、逆に生息知たる森林の破壊が進めば、よりクマの出没は不可避となり、それはクマ個体群の絶滅まで続くのではないかと危惧している。
 自然破壊をもたらす、大規模風力発電計画よりも、地道に森林生態系の回復を目指す事業を展開することが加美町の将来を明るいものにすると確信している。
 そして、この風車群を破産で北西側には、鳴子温泉郷がある。丸森町と同じく、美しい農村風景を大事にして、豊かな食糧生産基地として町が発展していくことを願っています。

 

 








 

大規模再エネ事業か、それとも美しい農村風景かー農村の未来を問う

 メガソーラー&大規模風力発電計画が目白押しの東北地方宮城県丸森町加美町へ現地視察とシンポジウムに招かれて行ってきた。成瀬ダム問題以後、久しぶりの東北なので、用事が済んだあとは、仙山線奥羽線米坂線羽越線を乗り継いで、山寺と村上市(新潟)のサケ漁や加工品製造などを観てこようと計画を立てたのであるが、台風による交通障害の為、村上市行きは断念し、その代わりに、江戸時代における循環型農業の発祥地である三富(上富・中富・下富)地区と川越郊外の雑木林を観てきました。

 今回はこの旅で観てきたこと感じたことについて書き留めておくことにしましょう。

宮城県丸森町

 最初に訪れたのは丸森町西部の耕野(こうや)地区は干し柿とタケノコの産地として暮らしを、地区の外れを流れる阿武隈川は、美しい景観を見せてはいるがその反面災害をもたらす暴れ川でもある。2020年の台風19号による斜面崩落、それに伴う土石流、河川の越水による道路の崩壊などの災害の傷跡が生々しい。こうした災害の中でも最悪だったのが2011年の福島原発事故であろう。この事故による放射線物質汚染は実に深刻で、降り注いだ放射税物質(主にセシウム137-半減期約30年)のために未だに一部農産物の出荷できない状況とのことだ。

 民家周辺は除染が済んではいるものの、山林はほぼ手つかずのままである。そんな中、住民の方々は再生に向けて日々活動している。そうした住民の努力を無視するかのようにメガソーラーが進出し、さらに大規模風力発電計画も持ち上がり、住民の反対運動も熱を帯びてきていて、今回の訪問は環境法律家連盟と再エネ問題全国連絡会合同の現地視察と意見交換のためのものである。

 丸森町周辺の地質は花崗岩が風化した真砂土地帯が多い。現地視察してみてわかったのだが、至る所に土石流の痕と思われる地形があり、ほとんどの谷には土石流で堆積した土砂を整備してできた棚田が散在している。

 人々は過酷な災害を乗り越えて、棚田を開き美しい景観を造成してきたことがうかがわれる。紛れもない文化遺産的な村落なのだ。まさに禍を転じて福となすということなのだが、最近の防災に名を借りた土木工事は、災い転じてさらなる災いとなす的な大きな疑問を感じる。台風19号による土石流があった現場でみたが、それはひどいものだった。知恵がなさ過ぎるのだ。過去を知る地元住民意思を政策に反映させる工夫がいるのだと感じた。生半可な土木技術が生物多様性という自然の価値を無視して、直近の災害のみに焦点を当て、広い視野にたった長期にわたる展望を持てないものにしているのかもしれない。ここはいったん土建屋マインドを捨てるときなのではないだろうか。

 川は流速を弱めるために川床もコンクリート製、護岸もコンクリート製の排水路となり、砂防ダムは長大な土石流の滑り台的構造となっている。まるで生きもののことは眼中になく、今だけなんとかなれば的発想の土木工事がまかりとおっている。

 とまれ、このような崩落しやすい真砂土の斜面の森林を皆伐し、土砂を削ってソーラーパネルを設置したり、尾根筋に大規模な道路を開設して風車を建てれば、大規模な土石流を誘発する危険性が大きいことはわかるはずである。それだけではなく、大規模な地形変更は、地下水脈の遮断の原因となるが、個別の工事や事業との因果関係は特定できない。それゆえ保証問題も、地元では泣き寝入りとなるケースがほとんどである。更には、除染されていない土壌内の放射性物質の再拡散さえ心配される。そうなれば風評被害では済まされない深刻な実害をもたらしかねない。まさに生存に関わる問題となる。これはまさに環境正義(公正)に反する行為である。ただ、現行の法制度ではこうした問題を解決することはできそうにない。一にも二にも、地元の人たちの努力ということになる。住民共通の意思として土地の提供を拒むことができればいいのだが、公有地であったり、個人の事情でそれもなかなかうまくは行かない場合もある。そうした過酷な状況の中で、どのような解決策を見いだすことができるのだろうか。現在の強欲資本主義に抗するのは難しいのだけれど、丸森町の景観の素晴らしさは一つの武器になるようにも感じた。

 近い将来、日本は重大な食糧問題に直面するに違いない。そのときになって初めて食糧生産基地としての農山魚村の価値が再評価されるはずなのだが、それまではなんとしても破壊から護る手立てをしておかなければならない。車を運転しながら、丸森町のあちこちを走っていて見つけた農村風景は実にのどかで気高い。電線の地中化などの工夫をこらせばさらに景観の価値は高まる。都会がうしなったのどかな景観は新たな観光資源としての価値を持つのではないだろうか。おそらく視察団のだれもがその価値を感じとったに違いない。

 とにかく、丸森町の景観は素晴らしく、それは近い将来、最大の財産となるに違いない。









渓畔林へは入れず―芸北漫遊の一日

 さる自然保護団体が10月下旬に、クマ関連の講演会(くまもりカフェin広島)を企画しており、それに続く現地観察会を細見谷渓畔林で行いたいので、協力してほしいとの依頼があった。初版の事象があってこのところ細見谷へ入っていなかったので下見に行くことにした。

 ところが台風14号が、細見谷のある広島県西部に大雨をもたらし、河川の氾濫もあったので、林道の常態に一抹の不安があった。我が家から細見谷へ至る県道は佐伯地区で小瀬川沿いに県道、国道を走ることになるのだが、数カ所で道路が陥没するなどの被害が出ていた。幹線道路でこれなのだから、元々悪路の林道はもっとひどいのだろうと思いつつ現地は向かった。

 吉和地区に入り、匹見方面へ抜ける国道434号へとハンドルを切ったのだが、この国道は酷道と呼ばれるように道幅は狭く、匹見地区以遠は通行止めとなったいたのだが、今回は吉和分岐点から先は通行止めとなったいた。やむなく、並行して走る広域基幹林道を利用する殊にしたが、この林道も管理状態が良いとは言えず、あちこちで舗装が剥がれている。林道は作るだけ作るが、維持管理はなし、という典型的は具体例のようだ。ただこの林道沿いは間伐作業が続いているので、かろうじて通行禁止とはなっていない。そうしてようやく、十方山林道入り口までたどり着く。ここから先、渓畔林へと続くこの林道は5年程前から一般車両の通行が禁止されているので、通行には事前に許可が要る。通年調査を続けているので、手続きに遺漏はなくゲート(鎖)は解錠して通過できるのだが、予想通り、林道は洗掘がひどく、早々に計画変更を強いられることになった。

 渓畔林がだめなら、大規模風力発電計画がある市間山ー立岩山のブナ帯を視察してみようかと思い、戸河内方面を目指す。が、こちらも林道閉鎖があって断念。やむなく内黒峠を超えて横川地区へ抜けようと思ったが、この道も閉鎖。八方塞がりだ。ここまできたら三段峡研究会(さんけん)を表敬訪問して情報交換をと思ったのだが、事務所は無人でこれもだめ。

 最後の手段として、芸北の刈尾山(臥竜山)と八幡湿原、及びそこに隣接する大規模風力発電計画地の視察へ切り替える。とまあ、災害地視察のような一日になったのだが、決して無駄足だった訳ではない。この日、出会った様々なことをつらつら紹介してみよう。

 まず、国道196号線を吉和へと向かうと、小瀬川太田川との分水嶺を超える手前に飯山という小さな集落がある。典型的な過疎集落で、廃田が広がる中、一部の田畑は県の農業監修地としてかろうじて農作業が続いていたのだが、それも終了したのか、今では荒れ果てた草地にソーラーパネルが設置されていた。かつて「消えゆく集落・消える食糧生産の現場 - 生きもの千夜一話 by 金井塚務」としてこのブログで紹介したところである。事態は一段と厳しくなっているのを実感する。食糧危機には目もくれず、ひたすら高エネギー消費社会へまっしぐらな日本に未来はあるのだろうか? 

 渓畔林へのアプローチを断念してあちこち動き回って、とりあえずブナ林が残る刈尾山へ行き、林道のどん詰まりで昼食をとることにした。樹木の隙間から島根方面に大きな風車が見える。あとで現場へ行くことにしてとりあえず飯。同行したメンバーはコンビニ弁当だが、私は自分が管理する浜で採れた「大野浅利」の炊き込みご飯をおにぎりにしたもの。彼らには申し訳ないが、自前の生産物ということで勘弁してもらう。ご飯を食べながら何気なく足下を見ると、ホオノキの果実かとまがうようなものがたくさん落ちている。ミズナラの虫こぶですね。というのだが初めて見るものだった。そう言われてみれば青いミズナラのドングリが混じっている。どうやらミズナラミイガフシ(写真)というもののようだ。

こうなるとクマはミズナラのドングリをあてにできなくなるだろう。クリは豊作に近い実りだったが、コナラ、ミズナラなど堅果類は不作ないしは凶作。ミズキもあまり実りは良くなさそうで、これらをクマ利用した痕跡は吉和でも少なかった。八幡湿原に隣接して島根県側に大規模な風車群が設置されていて、県境ギリギリまで迫ってきている。効用までにはまだ少し早いようだが、刈尾山のブナが心なし生気が無いように見えた。森全体がスカスカのような感じで生物の気配が薄いように思える。気のせいだろうか。それならいいのだが、これまでの経験からすると最近、奥山からはクマの姿が消えつつあるのは確かなようだ。

 刈尾山をあとにして八幡湿原へ向かう。ここでは久しぶりにカンボクに出会えた。同行した若者たちは、カンボクの赤い実の匂いを嗅ぎ、顔をしかめていた。これは不味い果実の代表だと教えると、その審議を確かめるために一口食べたのだが、そのまずさにたまらず悲鳴を上げていた。試してみる心意気に乾杯。

ミゾソバとススキが美しかった

何やら樹木が茂った湿原をパスして、例の風力発電施設の現場へむかう。道はここも最悪。途中落ちている大きな枝をのけながら進むのだが、そこで、大変美しいシマヘビの黒化型に出会うことができた(写真)。

 ガタガタの林道を進み県境を越えると、大規模破壊の現場へでる。この現場については私のFBで紹介してあります。

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故安倍晋三元総理の国葬に県知事・県会議長の参加の中止を求める(監査請求) 意見陳述

広島県の有志が集まり、理不尽な「故安倍晋三元総理」の国葬に異議申し立てをし、その国葬広島県知事&広島県議会議長の参加の中止を求める「住民監査請求」をおこしました。

その件に関して、9月21日(水)午後4時から口頭陳述があり、意見を述べてきました。

この制度は完全に有名無実化してしまっていますが、住民が公的な場で異議申し立てをする制度は限られていますので、蟷螂の斧ではあっても口を噤んでいることはできない相談です。

以下、意見陳述の内容です。何分時間が限られており、この程度の内容で我慢してください。質量転換の法則ではありませんが、少しずつでも、たくさん意見を表明することも大事です。

 

 

監2022年(令和4年)広監第100-2号措置請求事件  

                        2022年9月21日

 

広島県監査委員  御中

             請 求 人

 

 私は、頭書記載の措置請求事件の請求人金井塚務です。

  本日の公開口頭審理にあたり、次のとおり意見を述べます。

 

1国葬実施の基準の不明瞭さ―時の政権の恣意的判断

 何故、行政府の長たる「内閣総理大臣」のみが国葬の対象となるのか?

 過去、大喪の礼を除いて、国葬の対象とすべく議論になったのは、すべて内閣総理大臣経験者に限られている。国民の統合の象徴としての天皇上皇とは異なり、総理大臣は行政府の長に過ぎず国葬の対象となるには、国民の議論、すなわち国会での議決が不可欠である。それを内閣という行政府の一存で強行することは憲法に保障された三権分立の原則に反し、憲法の精神にそぐわないのみならず、民主主義の原則を踏みにじる行為と言わざるを得ない。

 行政府の長の業績をもって国葬の対象者とすれば、国権の最高機関としての立法府や司法を行政府に従属するものとの誤解を助長しかねない。三権分立の原則をないがしろにする危険性をはらむことになる。 

 さらに言えば、なぜ、民間人は国葬の対象とならないのか? いわゆる官尊民卑という差別意識の象徴的待遇と言わざるを得ない。民間人にも人間国宝(国の重要無形文化財)や文化勲章受章者、国民栄誉賞受賞者を始め、多くの国民から尊敬される方がたは多い。例えば、ペシャワールの会の代表者であった、故中村哲医師など、国家的栄誉とは無縁で有りながらアフガニスタンにおける運河造成を図り農業生産の回復を通じて平和構築に尽力したその行為に対して世界から尊敬された民間人も存在している。その功績は国葬の対象者として名前すら挙がったことがない。国民の一人として大いに矛盾を感じている。

 

  1. 安倍晋三元総理の業績が国葬にふさわしいとは到底思えない。

 権力の私物化が目に余る。 森友、加計、サクラを観る会など、権力を私物化し故人の周囲に利益を誘導し、国政の公正さをないがしろにしてきたことは多くの国民が知るところである。そうした暴挙が露呈するや国会における100回を超える虚偽答弁を行い、国権の最高機関である立法府への重大な背信行為(犯罪行為)を行ったことは明白な事実である。さらに虚偽答弁を糊塗するために公文書改ざんと証拠隠滅とに関与し、公文書保存の原則を無視した行為はこれまでも指摘されてきた蛮行である。

 また、安倍晋三総理の基幹政策としてのアベノミクスは極端な円安,企業の空洞化や労働環境の劣化は、非正規雇用の増大をもたらし、賃金の上昇も先進国では唯一低水準のままとなった。その結果、国民の間での経済格差は拡大し多くの貧困層を生み出した。そのの弊害ははかりしれない。それ故に岸田新総理は新しい資本主義を主導しようとしたのではないか。アベノミクスの弊害は食物安全保障の失敗にもつながる。農林水産業は衰退の一途をたどり、国内食糧生産に基づく食糧自給率は低下したままで、それに引き続く円安の進行は食糧や生活必需品の高騰など庶民の生活向上にはほとんど無策な政府であった。

 もう一つ大きな問題がある。カルト教団である旧統一協会との癒着による人権無視の政策(人権問題、排外主義など)は多様性を無視したもので民主主義の根幹を揺るがすものである。特に、安全保障問題に関連した核共有論や核兵器禁止条約への不参加(オブザーバーとしても不参加)は被爆国である国民としてはもちろん、広島県民としては全く同意できない政策である。

 

3総理大臣在籍期間が最長との評価は意味が無い

 故安倍晋三元総理の在任期間が歴代内閣で過去最長との事実を持って、国葬の対象としてふさわしいとのことだが、それは全く自民党という政党の規約変更によるもので意味が無い。

 自民党の総裁の任期は任期満了後に再び総裁選挙で当選した場合については、1974年以降に連続で合計2期(6年)まで(前任者の途中退任による残任期間を除く)とする規定が追加された。 その後2017年以降には「連続3期(9年)まで」と変更された。つまり安倍元総理の在任期間は規約改正によって最長となったに過ぎない。

 もとより、在任期が長いことと業績の是非とは別問題であって、評価の対象は在任期間中に何をしたかで測るべきものである。むしろ先の業績や資質を考えると長期であるが故に失政の影響が強くなったことも否めない。よって国葬の対象としてふさわしい基準にはなり得ない。

 

 以上のように故安倍晋三元総理の国葬三権分立の原則に反しかつ、思想信条の自由を定めた憲法にも著しく反するなど問題点を多く抱えている。その点を考慮すれば元総理の国葬は実施されるべきではないし、かりに国が実施を強行したとしても県知事や県議会議長など、地方自治体関係者の公費による出席はよくよくその是非を吟味する必要がある。少なくとも両者の国葬への出席の銭については県議会の議決が必要であろう。

 特に広島県においては、被爆問題を抱え、非核への道を求めている中にあって、核共有論を唱えた元総理の国葬には一定の距離をおくのが多くの県民の願いであり、公費を負担しての葬儀出席をしないよう強く求めます。

Web-博物館ー細見谷渓畔林4 モリアオガエル

 

       

 湿地である細見谷渓畔林はモリアオガエルの生息にうってつけの森である。6月半ばの細見谷を歩けば、そこかしこから、 カヮルル・ガヮルルとやや低くくぐもった野太いモリアオガエルの鳴き声が聞こえてくる。こう書いても実際の鳴き声を表現することは難しいので、兵庫県人と自然の博物館で作成した、カエルの鳴き声を教材とした図鑑で確認してください。https://www.hitohaku.jp/material/l-material/frog/zukan/moriao.html

 細見谷には氾濫原に大小様々な水たまり(止水)があってモリアオガエルの産卵場所には事欠かないのだが、渓畔林を歩きなれていないと、産卵現場に出くわすのはそう簡単ではない。細見谷では6月半ばに産卵のピークがあり、クマの調査時にたまたま出くわすことがあったので、断片的ながらモリアオガエルについて書いてみよう。

 森林棲で樹上に現れるモリアオガエルだが、繁殖期を除いてはほとんどその姿を見ることはない。しかし繁殖期(交接・産卵)である6月半ばには、上の写真のように渓畔林のそこかしこで観ることができる。

 そして時に運が良ければ、産卵の現場に出っくわすこともある。氾濫原の池にかかるチドリノキ(ムクロジ科カエデ属)の枝先にモリアオガエルの団子を見つけることができた。

下の2枚の写真がそうである。産卵を控えておなかの大きなメスに何匹ものオスがとりついている。よく見るとメスにとりついているオスには体色に大きな変異があるのがわかる。模様のない緑色の個体や同じく模様のない黒色の個体。さらに緑色に黒色の斑紋がある個体と言った具合に、一匹一匹模様が異なっている。



 さて、メスの周りにオスがとりついてしばらくすると、オスが粘性のある液体を分泌し始め、それをそれぞれのオスが後ろ足を使ってかき混ぜる。こうすることで粘液に空気が混じり泡だってくる。鶏卵の卵白で作るメレンゲのようなものだ。 

 時間の経過とともにメレンゲは大きくなり、やがてソフトボール大の卵嚢へと大きくなると、メスはその中に産卵し、受精する。しばらくすると表面が乾燥してカサカサの膜に覆われたように硬くなる。こうして真っ白な卵嚢が木の枝に目立つようになる。

 産卵が終わって一週間ほどで孵化が始まり、オタマジャクシはこの卵嚢の中で育つ。オタマジャクシの期間がどれほどなのか正確なところはわからないが、4ー5週間ほどで変態して小さなカエルに成長するようだ。

 ところで、このモリアオガエルの卵嚢はやがえ雨に打たれて溶け、オタマジャクシのうちに下の水たまりに落ちるとされている。水たまりに落ちたオタマジャクシはそこでプランクトンなどを食べて成長し、まもなくカエルに変態して上陸し森の中へと帰っていくという。

しかし、例外はどこにでもあるものだ。2009年7月12日のことである。雨に打たれて崩れかけているモリアオガエルの卵嚢を見つけた。するとその解けた卵嚢にいたのはオタマジャクシではなく、すでに小さなカエルになっていた。中にはまだ尻尾が吸収されていない変態途中の個体もいたが、卵嚢のなかでよくもここまで成長したものだと感心した。一帯何を食べていたのだろうか? 卵嚢つまりメレンゲを食べていたのだろうか?それとも卵嚢の中に小さなプランクトン様の有機物があったのだろうか?よくわからない。

 とにもかくにも変態を遂げた小さなカエルは森へと帰っていくのだろう。とはいえその森も安全地帯ではない。

 カエルとなっても捕食者は多い。この写真はモリアオガエルを狩って食べるオオコノハズクを捉えたものだ。ゆめゆめ安心はできない。そして危険といえば、乾燥や水場の消滅である。細見谷渓畔林を縦貫する林道には未舗装の砂利道でありあちこちに水たまりができている。じつはこの水たまりというか常に水が流れている林道が渓畔林の保全には欠かせないのである。この調査は、この林道の大規模林道(後の緑資源幹線林道)計画を阻止するために始まったのである。渓畔林を縦貫するこの林道が拡幅、舗装されると渓畔林の維持に大きな危機となる。その計画は幸運にも中止となり、渓畔林はなんとか維持できている。
 モリアオガエルヒキガエルは林道上の水たまりも繁殖用の生息場所として利用している。林道に張り出した枝にモリアオガエルの卵嚢を見つけることは容易である。

 こうした林道上の水たまりは場所によっては枯れることなく存続するものもあるが、多くは、一時的に生じてやがて枯れてしまうものである。では、そうした林道上の水たまりの上に産卵することは無駄なことなのだろうか?確かに無事カエルになるまでにかれてしまうという繁殖の失敗というリスクがある。その一方、一時的な水たまりには、オタマジャクシを捕食するヤモリなどがいないという利点もある。かりに、変態するまでの間水たまりが保持されれば、大いなる成功となるやもしれぬ。こうした偶然性は生物の生存や進化には欠かせない要素である。環境アセスメントではこうした認識が欠かせないのであるが、現実はどうもそうではなく、取るに足らない事例として無視されているということを、大規模林道問題を通じていやというほど見せつけられたのである。

 モリアオガエルだけでなくあらゆる生物は生存の為の努力をしており、偶然の効用がときにそれを支えているのだということを、改めて感じた次第である。