生きもの千夜一話 by 金井塚務

大型ほ乳類の生態学的研究に関するエッセイ、身の回りの自然、旅先で考えたことなどをつれづれに書き連ねました。

大規模風力発電の問題点

 大規模風力発電の問題点
                                                          2020年10月31日(土)/ 佐伯区役所西館6階大会議室

※ 大規模風力発電学習会 講演(広島2区市民連合

 

子どもたちに未来を拓く広島2区市民連合学習会

金井塚務(環境NGO代表・広島2区市民連合呼びかけ人)

 

■環境正義(Envilomental Justice)

 ご紹介いただいた金井塚です。冒頭、私自身はもともと、風力なり太陽光なり、自然エネルギーを利用する、そのことには反対していません。ただしこれが、大規模、メガ施設となると話は別で、そこが問題になります。我々は人として、人間として、生きていく上で、環境に働きかけてエネルギーを消費して、生産物をまた返すという環境とのやりとりの中で生をつないでいるわけですから、まったく何も利用しない、エネルギーを消費しないというわけにはいきません。これは当たり前のことですね。だけども、程と言うことがあります。今日は、環境正義・公正の観点から考える、ということからお話ししてみようと思います。

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 まず、環境正義とは何だと思われる方もいるかもしれません。私は先ほども紹介されたように、日本森林生態系保護ネットワークの代表でもあるのですが、この組織は、大規模林道問題の全国ネットワークから発展してきて、森林問題を考えましょうということで、出来てきたネットワークです。今、主に、沖縄ヤンバルの森林破壊問題を扱っているわけですが、要するに、日本全国で自然が徹底的に破壊され尽くされようとしていますが、実はこれ、日本だけの問題ではなく世界的なグローバルの問題として、非常にゆゆしき問題なんです。都会で暮らしているとあんまり意識しないんですが、自然なんて、普通、ほっとけば何とかなるもんだ、と思っている人が大方なんです。そこで、そうじゃないということをもう一度考えてみましょうというのが今日の話なんです。

 環境正義(Environmental Justice)、アメリカの黒人解放運動の一端から出てきた考え方、運動のようです。日本でもそうなんですが、ゴミの処理問題、産業廃棄物、あるいは核のゴミ、それらをどこかに捨てなきゃいけないわけです。そのときに、都会には絶対に捨てないのです。どこに捨てますか。要するに少数者のところに押しつけるわけです。それはレイシズム、民族差別主義と密接に結びつくのですが、要するに弱いところにやっかいな物を押しつける、ということが、資本主義社会の中でずっと行われてきたわけです。社会主義の国でもそうなのかもしれません。

 人間の集団の中でそういうことが行われている。要するに、都会ではおいしいところを頂きますが、汚い物はあなたたち、弱い者が引き受けてね。そういう話です。それはまったく公正に反することでしょ、と言う議論がアメリカから沸き起こってきて、今、欧米を中心に、そういう考え方が理解されつつあります。

 

■利権のハニカム構造 

 日本ではまだ議論の俎上にも上っていないのですが、大規模林道計画というものが、私が直接これにかかわることになった問題なのです。それ以降、ずっと弱い者いじめといいますか、いわゆる環境弱者にしわ寄せする政策が脈々と続いている。そのときに、大規模林道問題のときも、政・官・業・学・報の、司法をのぞく五つ、ペンタゴンが諸悪の根源であると指摘された方もおられるのです。実際に自然保護運動、環境正義を確立していこうとする運動の中で強く感じるのは、この5角プラス司法、これが決定的なのです。このハニカム構造、利権の構造ががっちりと構築されていて、我々が立ち上がって裁判に持ち込んでも、行政の裁量権で全部撥ねられる、ほとんどの環境問題は最終的に負ける、ということがあるのです。そこにみなさん、目を向けなけりゃいけない。このハニカム構造をいかに崩していくか、この構造を崩すのは、我々の蜂起しか無いんですね。要らないものは要らない、絶対に受け入れない、ダムもしかりです。

 この風力発電・大規模風力発電もまったくこの構造の一つなのです。

 

■エネルギー消費生活は持続可能か

 そこでもう一つ考えてみます。電力は必要だということは万人が認めるところですね。今日の学習会だって、これは電力が無ければ出来ないのです。マイクが無くたって、大声を上げればいいわけですから、ムリすりゃ出来るのです。けれども普段の生活の中でエネルギーを使わずに生活することは出来ない、電気は必要です。しかし振り返って考えてみれば、これほど莫大なエネルギーを使い続ける生活というものが続けられるものかどうか。そこを考えなければいけないんじゃないかと思うのです。

 次の世代の問題です。最終的には自然と経済の関係です。我々が暮らしていく上で経済活動、コロナか経済かという話も出ていますが、経済とはギリシャ語でOIKOS、家族という言葉が語源なのです。家族の中のOIKOSとNOMOS、お金のやり取りを経済学、社会の会計を指します。

 自然の方はOIKOSプラスLOGOS、生態学というものがありますが、ものの循環・やりとり、生物間のどんなやりとりで生物界が成り立っているか、あるいは、自然というものはどう成り立っているか、と言うことを調べるのが生態学です。

 どう考えても、自然の体系・収支がきちんと合わなければ、経済や社会の大系も続くはずが無いのです。我々は今、社会の会計の問題を非常に重要視しているんですが、それは、自然の会計学が無限にあると誤解しているからです。

 

地球温暖化

 先ほど、地球温暖化の話が出ていますが、なぜ温暖化するかというと、おわかりですよね。化石燃料を使って、閉じ込められていた二酸化炭素を大気中に放出してしまう。そうすると二酸化炭素濃度が高まるから、地面(地表)から跳ね返ってくる輻射熱が、今までは地球の外にある程度抜けていたのが、その抜ける度合いがかなり少なくなると、こもってしまう。熱がこもるから温暖化が進む。そういう構造になっているのですがそれも一直線に進むわけでは無い。世の中には色んな複雑な行程がありますから、例えば海のようなものの中に二酸化炭素が溶け込んでいれば、しばらくは大気中の二酸化炭素濃度が増えないで収まっている。しかしもう、海が、これ以上はもうダメですよとなったら、海からも出てきてしまう。あるいは、海水温が高くなっていくと、気体は海水に溶ける量が減ります。またそこからも出てくる。

 よく言うのは、森林というものが二酸化炭素を吸収して、肺のような役割を発揮して、酸素を出すと言う風に言われますが、これは完全にオフセットな関係です。森林が二酸化炭素を取り込んで固定化しているわけではありません。それはナゼかというと、葉っぱにしろ、枝にしろ、花にしろ、樹木はいったん枯れてしまうと、今度は放出する側に変わるからです。木が永久に生長し続けている限りでは、二酸化炭素を吸収してくれます。けれど、一部は吸収するけれども、同じ量を輩出していくわけですから、カーボンオフセットの関係に基本的にはあるわけですから、森林に頼るわけにはいかないのです。

 

化石燃料の大量消費

 では、なぜ、今まではうまくいっていたのに、うまくいかなくなっているのかというと、二酸化炭素を固定していた化石燃料を、石炭・石油、こういうものを大量に使い始めたからです。

石炭・石油というものは、色んな説はありますが、生物の歴史5億年以上ありますが、太陽エネルギーの活動の結果、ためてきた生産物が化石化して、今、石油・石炭になっているわけです。太陽エネルギーが生物を通して蓄えられ、二酸化炭素が固定化されてきた経過があって、やっと今、私たちが暮らせる酸素濃度にいたり、環境が落ち着いてきたわけです。大量に蓄えられてきた石油・石炭を、産業革命以降、大量に使い出し、ものすごくエネルギーを使うようになって、大変便利な世の中になりました。私もそれを享受しています。常日頃からそういう生活をしていながら、こういうことを言ったり書いたりしているのは、大変な矛盾だと言うことは承知しています。それでも、もういい加減にしましょうよといわなければ、この生活は続かないんじゃ無いか、と言うのが、この温暖化の問題です。

 

■過剰利用と文明・社会の崩壊

 こういう状況に合った、いわゆるメガ、過剰利用が生んだ社会がどうなったのかが問われます。

少しだけ考えてみても、かつて反映したメソポタミアとかギリシャの文明は、みなさんよくご存じだと思いますが、今では砂漠になったり、あるいは、ほとんど木の生えていないエーゲ海の周辺、ほとんど裸地に近い状態で存在しています。それはナゼかというと、端的に言えば過剰利用なのです。自然の生産力以上に消費してしまう。だから当然、ストックは無くなって砂漠化していく。生産力も無くなる。自然の経済が破綻したおかげで、人間の経済も破綻した。と言うことが歴史上ずっと起こってきたわけです。

 しかしまだ幸せだったのは、これは一ローカルの問題だった、メソポタミア、今のイラクです。ギリシャ、エジプトもそうですが、いわばローカルの問題でしたから、別のところで人間は暮らしを営むことが出来たわけです。

 ところが、今日はどうでしょうか。地球の隅々まで使い尽くそうとしていますから、逃げ場が無い。地球上での人間の経済活動が破綻する状況が起きていますよ、起きているのです、本当に。それをみなさん気がつかない、私もたいして気がついていない。言っているけど、そんなに実感として気づいているわけでは無い。けれども、気づいたときにはもう、どうにもならない、修復不能の事態になっている状況が訪れることは間違いが無いのです。

 こういうことは頭では分かるのです。頭では分かるけど実際はどうなのよと言うと、なかなか難しい。

 日本でも、これは北海道の十勝三股というところですが、そこに豊かな森林があったのです。ところが洞爺丸台風での風倒木の処理を理由に林野庁が大伐採にのりだし、うっそうとした森は丸裸になります。こうなってしまうと、この十勝三股から人も消えてしまった。今行ってみれば、道が一本、まっすぐに伸びている、廃線跡があるだけ、ある意味、観光地になってしまった。こういうことは結構、あっちにもこっちにもあるのです。森林破壊、自然の破壊、つまり生産の糧を失ってしまうと、そこには我々は暮らすことは出来ないのです。経済も成り立たなくなってしまうという、一つの事例です。

 

■高度成長とダム・水力発電

 二つほど歴史を振り返ってみますと、明治維新があって、そこからどんどん文明国になっていく歩みを日本は始めるわけです。特に戦後の話をしますと、戦後復興のためには、様々な資材・資源が必要だったわけです。エネルギーをどこに求めたかというと、主にダムによる水力発電、そのためにダムをたくさん造るのですが、日本の主な大きな河川、大規模な一級河川の中で、本流にダムが無い河川はほんのわずかしか無くなっています。長良川四万十川ぐらいです。四万十川は最後の清流と言われていますが、清流では無くて、本流にダムが無いという最後の自然河川なのです。

 そういう中にあって、多くの河川、広島もそうですがダムをたくさん造ってエネルギーを取り出す。そのエネルギーはどこに行くのか。当然、家庭用では無くて産業用です。沿岸地域に埋め立てて工場を作って、そこのエネルギー源として使われる。ただ、エネルギーを供給しただけではものは作れません。労働力というものが要ります。どこから取ってくるのか、もう農業は辞めて工業で稼ごうよ、と言うことで、都市周辺に人口を集める政策をやってきた。過疎の中山間地域と過密の沿岸地域という風に、人口の分布濃度が変わってくるのです。内陸・山間部の経済が疲弊してくる。基本的には工業で稼いで、輸出で稼いで、外貨で稼ぐ、その富を再配分しなければいけないんだけれども、当然、声の大きい都市部に重点配分されていく。そういう政策がずっと続けられていき、第一次産業はどんどん衰退していく。

 こういう構造が定着する中で、クマの問題とか、シカやサルによる獣害問題が、まったく同じ構造の中で起きてくる。ドングリがならないからクマが町に出てくるのでは無い、こういう構造こそが諸悪の根源なのです。

 こういう構造の中で風力発電を考えましょう、と言うのが、今日の私の提案です。

 

■里で何が起きているのか

 かつての中山間地では何が行われていたのか。農業の肥料として、生活のエネルギー源として、里山はのどかなものだと思っている方もいるかもしれませんが、実は資源として搾取の対象だったわけです。里とは農地です。山っていうのは林、森なんです。里山って、みなさん、大変良い響きとして受け取られていると思いますが、実は厳しい環境の中にあって、ほとんど収奪の対象地域でした。ですから、広島の中山間地域、人がまだ多かった地域では、戦後復興の流れの中でもありますが、里山にはほとんど樹木らしい樹木も無くて、林床はほとんど草も生えずに真砂土が露出している山だったのです。だから松茸もボコボコ出てきた。松しか生えていないから。そういう産物として戦後しばらく、松茸が広島の、生産量日本一という地域を保ってきたわけです。

 しかし、人口が減って里山に人が入らなくなる、里山というのは徹底して農業のために、落ち葉や小枝は農業生産用の堆肥として使われてきた。そして生活のエネルギー源、薪炭として10年生・20年生の広葉樹が切られ、薪として、エネルギー源として使われてきた。栗とか少し太い木は建築資材として、道具の材料として活用される。そういう中で里があり、農地があり、裏に山があると言う里山風景が作られました。

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■大江戸の循環社会

 武蔵野というのは、みなさんもご存じだと思いますが、東京近郊の雑木林です。トトロの森なんて言われて喜ばれていますが、江戸時代、元禄までは火山灰土が積もる、荒涼とした荒れ地だったのです。「武蔵野は、月の入るべき峰も無し、尾花の裾にかかる白雲」だったかな、そういう歌があるように、茫漠とした荒れ地だったのです。江戸を開府していろいろな消費財が必要になる、5代将軍綱吉、その側用人だった柳沢吉保、後の川越藩主ですが、一計を案じまして、クヌギ・コナラ・クリを農民に植えさせたのです。森を作って、その森で、堆肥を作って、芋のような食物を作らせた、森が少しずつ出てきて、だんだん広がっていく、生産力が高まってくると、農業が成立するようになってくる。生産物を江戸に持って行き、代わりに、江戸の廃棄物を持ち帰ってまた肥料にする、そういう循環社会ができた。これが大江戸の循環社会の成立の起源なんです。

 里山はそういう風に経済を支える豊かな自然として成立していたのです。野生動物との軋轢もありつつ維持されてきた。

 里山というのはある意味、荒れています、生産力を人間が取っていきますから、考えてみれば野生動物の取り分が無い。野生動物の取り分が無いと言うことは、里山には大型の野生動物は生活圏を持てなかったということです。もちろん、タヌキ、キツネ、イタチ、アナグマなどの小動物は細々と、畑の生産物も利用しながらそれなりに生きていましたが、大型動物はそうはいかない。カモシカ、クマ、サルなどはそういうところでは生活できないから、奥の山に行くしか無かった。奥の山は当時それほど利用されていなかった。川が輸送手段のルートになっていましたから、川の状況によっては、木材の切り出し・運搬が出来ません。放置されていたというか、人が入っていかなかったところがかなりあるのです。いろいろな説がありますが、この辺、中国山地の沿岸部は、江戸時代、すべてはげ山だったと言います。それはそうで、沿岸地帯は、人が利用できるものはすべて利用し尽くす、アクセスの良いところは過剰利用で荒れ果ててしまう。アクセスが悪いところは、細見谷のように、どこから入るにしても遠すぎ、しかも滝が連続していて、木材の輸送が出来なかった。だから手つかずで残ったのです。そういうところは渓畔林としてポツポツと残っていたのです。

 

■江戸・明治の獣害

 そういう時代が長らく続いていたのですが、もう一つの条件として、江戸時代はかなり森林の規制が厳しくて、あるいは、農民が武器を持つことは許されなくて、農家に数挺の銃を持つことが許されることもあるし、槍だけ許される場合もあるのですが、獣が出てきても集団で追い払うだけということも行われていたようです。ところが明治時代になると、江戸時代の幕藩体制の管理機能が失われて、それこそ銃規制が無いような社会に、みんなが自由に銃を持つようになります。お金になるものを手当たり次第に採るようになります。カモシカ、クマ、シカ、イノシシ、それから大形の鳥、採って食べるというより剥製にして海外に売るということが起こり、ずいぶん、日本の中山間地から獣が消えていったと言う経緯があるのです。

 ですから、明治時代から昭和の初期まで、獣害というものがほとんど無かった。非常に農民にとっては楽な時代だった、獣害に対してはですよ。そういう時代でした。

 しかしこれが1960年以降は大きく変わります。エネルギー革命があって、高度経済成長と人口の流出、中山間地は過疎になり、商品作物として植えられていた果樹、畑、水田などが放置されていく、人間が利用しなくなる、里山に生産物を蓄積するようになる。里の周辺が生産物で豊かになっていくという状況がひとつあります。その一方、奥山の方はどうなっていったのか。電源開発でダムが出来、砂防ダムが造られ、造林事業で杉や檜が植林され、生産力が大きく減っていくのです。奥山の生産力が大きく減り、集落周辺の、里山の生産力が相対的に上がっていく、人間が使わなくなった里の周辺の森は、当然、野生動物が利用するようになる。当たり前の話です。

 そういう自然の生産物をどう利用するのか、誰が利用するのかを問わないままで、獣害が大変だから採れば良いといっても、エネルギーのムダなんです。我々が何をすべきかということは、エネルギー消費型の我々が、どうすればエネルギーを使わないで暮らせるか、社会をどう変えるのか考えなければいけないと思います。

 

■西中国ウインドファーム

 それで今回の風力発電の問題です。風力発電が計画されている地形は吉和・筒賀・湯来にまたがる山嶺地域、尾根部分に計画されていますが、実は、この場所に風車を立てて、発電できるのかという疑問もあります。山々の尾根筋に沿って風車を建て、風車が林立するという形になります。どうでしょうか。すばらしいと思う人もいるでしょう。問題は、風車が立つということはどういうことか、風車というのはものすごく大きい、風車の羽、ブレードは60メートルもあります。一本ずつ運んできて現地で組み立てます。輸送しなければなりません。60メートルもあるものをどうやって運ぶのかというと、当然、車で運ぶしかありません。想像できますか。とんでもなく大きい羽を運ぶ道なんて現地にはありませんから、無ければ作る、道路を作るのです。だからいけないのです。山の尾根筋に羽や機材を運ぶ大きな道を作るのです。

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風力発電装置の設置イメージ

 それでどういうことになるか。私は今、ヤンバルで森林問題をやっていますが、たまたまヤンバルにも小さな風力発電があります。20メートルくらいのブレードを交換するときに、ちょうどすれ違いました。海沿いでそんなにカーブしている道ではありませんが、それでも道幅いっぱい、すれ違いが出来ないほどの状況でした。車をよけてくれと言われ、道ばたによけたのですが、「何を運んでるのか」と聞けば、「風力発電のブレード(はね)です」といわれ、これがブレードなんだとビックリしました。そのときの倍以上に大きなブレードなんです。まっすぐに積んで運ぶなんてムリです。どうするのか、立てるのだそうです。それでも大型林道、片側2車線、高速道路並みの道を切らなければなりません。道を切るとどういうことが起きるか、実は色んなことが起きるのです。立岩ダムの上流部から稜線を見上げ、こんな風に風車が立つと合成してみました。パソコンで立てるのは簡単です。いくらでも立てられる。しかし実際に立てるのは大変です。

 四国の高知県徳島県の境に天神丸というところがあります。そこにも風力発電の計画があり、今、地元で反対運動が始まっています。四国の場合には割合スムーズに計画が進んで、愛南町では風力発電がもうできています。根筋に立派な道が出来る、大規模林道、広域基幹林道をまっすぐに作ります。そうすると風が吹き抜けますから、まわりの乾燥がきつくなって、木がバタバタと枯れ始めます。木が枯れると、土壌をつかむ力がありませんから、雨が降ったり雪が降ると、地盤が弛んで必ず崩落します。

 

風力発電の負の影響

 風力発電の場合、自然への影響と社会への影響、二つの大きな影響が起こります。自然環境では取り付け道路の問題点があります。大規模で直線的な道を尾根筋に作りますから色んな問題が起こります。四国はなぜ簡単にできたのかというと、すでに大規模林道を作っていたからです。四国の山間部の尾根筋に、ずっと大規模林道が出来ているのです。そこを利用しているのです。あるから出来るよと、作っちゃった。広島でも安佐山とかは危ないのです。実際に動き出しているようです。大規模林道を止めるのは、その点でも意味があったのです。

 大量の残土が出ます。その残土をどこに捨てるのでしょうか。谷を埋めて、今度は大規模ソーラー、一つの破壊が次の破壊を生む。これは連鎖するのです。このネットワークというのはかなり巧妙ですから、我々が個人個人でけしからんと言っていてもどうにもならない。どうにかするには、最初にもいった利権構造を崩さなければいけない。

 

■自然への影響

 バードストライク。羽に鳥が当たって死ぬ。渡り鳥も風に乗って風車を越えようとする、大丈夫だろうと飛んでいっても、間に合わなくて羽に当たり、小さな鳥や大きな鳥、渡り鳥が落ちる。鳥も多難な時代なんです。ジェットエンジンに吸い込まれたり、風車の羽で殴られたり。どのくらいの早さなんだろう、風力発電を遠くから眺めていると、割合ゆっくり、数秒かけて回っています。たいした早さではないと思ってみていたのですが、60メートルのブレードが5秒間で一周するとなると大体時速200数十㎞、新幹線並みです。それがシュッとくる、どうしてもぶつかっちゃう。だからあんなのどかなものでは無いのです。外から見ると角速度はゆっくりなんですが、羽根の先端の早さというのはものすごい。そういう問題があります。

 音も出ます。震動も出ます。道を切った法面に草を吹き付けます。これは外来種です。そうすると何が怖いかというと、そこがシカやイノシシの餌場になる。

 地形の変化や乾燥など、色々問題があるのですが、そういうことをまとめてみると、生物多様性の喪失というものが無視できないほど大きい。ますます里に獣が押し寄せる要因になってくるのです。これがずっと続くわけです。永久に続くということは、森林そのものがかなり大きな範囲で毀損されると言うことです。

 

■社会的な影響

 さらに大きいのは社会的な影響です。低周波による健康被害、もちろん人も家畜も被害を受けます。災害の危険性の増加というのは、構造物を作るわけですから、それも風でぐるぐる動いているわけですから、ある一定の強さを超えて、台風などの巨大な風が吹くと、当然、倒れますよ。倒れることも想定しなければいけない。そうなったときに一体誰がそれを補修して、修復して元に戻せるのか。ほとんどこれは不可能なんです。壊れたら放置、なぜかというと、撤去する費用が馬鹿にならない。だったら放置した方が安い。つまりコストなんです。どの程度コストがかけられるか。

 問題はもう一つあって、こういうものが作られるとき、賛成・反対で必ず世論が割れるのです。お金がもらえる人、もらえない人、被害がある人、ない人。当然、コミュニティの中で今まで仲良くやっていたものがギスギスしてくる、協力体制が損なわれますから、コミュニティそのものが機能しなくなる。さらに施設を維持するためには当然、地元、行政を含めて負担がかかってくる。税金が吸い取られる。とんでもないことばっかりなんです。良いことはひとつも無い。

 ここで作った電気は地元の人が使うわけでは無い、ほとんど産業用です。地元のみんなが使うものでは無い。そんなことのためにコミュニティが破壊されて、長期にわたって住めなくなる。住めなくなるところがどんどん増えてくる。食糧の生産基地がどんどん破壊され、人が住めなくなって、エネルギーは外に出す、そんな社会が永続するわけが無い。

 

■地域崩壊の入り口

 だから大規模風力発電というのは、単にエネルギーだけの問題では無い。食糧生産基地である農山村地域をどう存続させるかが一番問われているのに、それを立ち上がれなくなるほど壊して、エネルギーだけは取り出しましょうと言うのが、一部の利権屋の発想なのです。だから、私たちは都市に住んでいるから関係ないよ、というのは間違いで、将来、都市の人も食糧難と水不足で悩むときが来る、今、地球上で一番問題になっているのは食糧生産と水の奪い合いです。水はほとんど足りなくなっています。どうやったら物資を使わず、長く細く生きられるかということに一歩踏み出すことが、今、求められているのです。

 風力発電の効用というのは、それを考える機会になるということだけです。

 道路を作ると、必ず、法面が崩壊するのです。道路周辺では風が吹いて木がどんどん枯れるのです。計画地の東側の斜面、立岩山です。中国道のトンネル東側の出口ですが、2004年の集中豪雨で法面が崩れているのですが、多くの場合道路の路肩が土石流の起点になります。道だけで無く、盛り土を伐採した境目、つまり、今まで樹木や植物ががっちりと石や土をつかんでいたところが、その機能が無くなったところが簡単に崩落するのです。風化にさらされ、水が染みこみ、冬は凍るからです。

 

■電力は足りている

 次に見ていただきたいのは電力需要のグラフ図です。一番上のグリーンのところが家庭用のエネルギー消費ですが、日本の全エネルギー消費のうち、家庭用で使われているのは3分の1にも満たない、多くは産業用です。業務用34%、産業用・工場生産とかは37%、家庭用は28%。これからもこんな時代が続くのかといえば、そんなことは無いですよね。日本は世界の工場であることをとうの昔にやめたのです。これからもその望みは無い。だけどもエネルギー消費を続けなきゃいけないからと、エネルギーを作る装置を色々と考えています。そういうことはもうやめましょうというのが、この図で分かります。

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エネルギー庁 エネルギー白書2018 より

 例えば自動販売機。お茶とかジュースの自動販売機を3分の1に減らしましょうといって、困りますか。困らないですよね、あんまり。困る人もいるでしょうが必須では無い。必須ではないものはたくさんあるのです。無駄に使われているもの。そういうものをいちいち自然環境エネルギーに頼ってやっていきましょうと問われれば、当然、取捨選択しなければいけません。我々の望む食糧・水の確保、安定的なエネルギーの供給を考えれば別の社会を描けるわけです。社会を描くときは、そういう物質を基盤に考えるのはわりあい重要です。食料増強、水をどう確保するか、エネルギーをどうするか。日本という一億人近い人が半分に減っても5000万人、その人間がうまくやって行ければ良いじゃないか。貧乏でも豊かに暮らせれば良いじゃないか、という世の中もあるのではないか。

 最近、私は「人新生の資本論」(斎藤 幸平・集英社新書)という本に目を通したら、同じようなことを考えている人がいると思いました。関心のある方は、後で読んでみてください。

 

風力発電の適地なのか

 次に、それでは本当に、今計画されている吉和、湯来、筒賀、この地域というのが適地なんだろうか、つまり、立てたは良いけれど風が吹かないでは笑い話にもならない。そこで、1994年、大分古いんですが、このデータで適地となる風が吹くところを網目で示した地図を見ていただくと、そういう形で見ると、広島県というのはダメなんです。ソーラーなら多少は良いんでしょうが、風力はダメというのは風量数値です。風が12メートルから20メートルの範囲で吹いてくれると、安定的に風車が回って電気を作れるんだけれど、弱すぎても強すぎてもダメなんです。稼働率が悪いと、作ったは良いけれど儲からないから辞めましょうということになります。やめたらどうするの、撤去してくれるのと言えば、撤去してくれません。削った山を元に戻してくれるのか、これも無い。被害だけが残って。あちこちにありますよね、バブルの時にあちこちにホテルなどが建てられて、廃墟になっている、そういうものができることになります。

 その証拠に、今までほとんどが日本海側、そして四国・九州。今日、九州の水俣で同じような集会をやっているのですが、九州の鴟尾山系にも計画されています。そこでも反対という声が上がっています。全国各地で、秋田でもそうですが、反対運動がかなり強くなっています。我々も早くから反対の声をあげることが重要になってくると思います。

 もういっぺん計画地の地図を見て、これは辞めようよと思っていただきたい。

 風車の工学的な理屈を示したグラフを見ていただきます。今日は割愛しますが、発電量のグラフでは、12メートルから20数メートルの間でしか、発電に適した風はありませんと表示されています。こんな風が広島でズッと吹くのかと言えば、吹きません。

 

■風が吹かないのになぜ作るのか

 吹かないのになぜ作るのか、それがよくわからない。前は補助金目当てでしたがその制度は無くなりました。ただ、計画の主体が電源開発です。なんか胡散臭いんです。「原発」に代わるものとして候補地を押さえておこうという、そういう思惑があるのかな、何か事業をしなけりゃ行けないんだろうとか、よく解らないのです。その辺の事情は私には全く理解できません。

 地質的に見ても新しく確認された断層が計画地に走っています。そこには県の天然記念物の「押しヶ峠断層帯」という立岩山系の断層があります。そこには細見谷渓畔林の細見谷がありますが、あそこは全部断層帯なのです。その断層帯にあたるところに作ろうというわけですから、これまた無茶なんです。無茶ですね。

 中には観光に良いんじゃないかと言う人もおられますが、良いわけが無い、風車の方がよっぽど良い。

 風力発電と言うから、風さえ吹けば発電するかというと、そうでも無くて、例えば止める時には別の電源がいるとか、不安定な電源ですから、安定させるためには別のバックアップ電源がいるとか。そうなると火力とか原子力の別の電源が必要になってくることになります。何のために作るのか、やっぱり過疎をいじめるため、環境正義に反することを好き好んでやるとしか思えない。これはもう憲法25条に反することだと思います。

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■自然の多様性を育てること

 十分これまで自然は多様性を破壊され、生産力を奪われてきたのですが、それがこれだけの要因があるわけです。河川生態系の破壊、ダムや砂防ダムを作って物質循環を止めちゃったから、サツキマスが遡上していたのも全然ダメでしょ。太田川も遡上しなくなった。上流部にはアマゴやゴギがいるのですが、それもほとんど姿を見なくなった。放流しなければ維持できないくらい弱っている。それはダムや砂防ダム、護岸工事などによる河川の生態系の破壊がとても大きい。産業構造の変化に伴う中山間地の過疎化、さっきも言いましたがそういうことです。森林は森林で大面積皆伐とスギ・ヒノキの人工拡大造林への転換、広葉樹林の破壊。森林の生物多様性と生産力の減退が行われてきました。動物には林道網の敷設による移動経路と餌場の出現。獣って、通るところはだいたい決まっているんです。どういう所か、歩きやすいところ、平らなところ。好き好んでブッシュに入るのはイノシシくらいです。ほとんどは、道を切ったらそこを歩きます。だから、クマに出会うのは道を歩いているから、クマも道を歩いているのです。川を歩いていると、クマも川を歩きますから、出会うんです。人間は、藪の中を一生懸命こいでいると合わない。だからこういう特定の動物だけが増える環境になっている。

 

■山に生き物がいない

 それに温暖化というものがあるでしょ。温暖化が進んで、豪雪地帯の細見谷もちょっと様子がおかしい。ドカンと雪が降ると、一週間、雪が降らずに、それが溶けちゃってまたドカンと降る、根雪ができない。何が問題かというと、温帯の動物ってどうやって冬を過ごすか、食料が無いですから。食糧難を省エネで過ごす方法をそれぞれ獲得してきたのです。冬になって寒い時は寝てる。活動しない、代謝を落とす。エネルギーを消費しないでやり過ごそうとしてきたけど、どういうわけか小春日和が一週間も続いてしまう。春だと思っていたらまたドカンと雪が降る。個体群が減ってしまう。春になっても復活しない。今実際に山の中に行ってみれば解りますが、虫はいません。虫を食べる鳥もいません。魚もいません。蛇もいません。ほとんどいません。ところが過疎地に行くと、クマはいる、シカはいる、イノシシはいる。動物を見ようと思ったら過疎地に行くに限るのです。そのくらい生活の場所が変わってしまったのです。

 この構造を変えなければいけない。元々豊かだった森を豊かにする、豊かな里山は、その生産物を人間の生産物に付け替える。農業生産です。だから石油に依存する農業では無くて、自然の生産物を利用した農業への回帰、これが一つのテーマなんです。

 柳沢吉保がやった雑木林の造成による農業生産の確立、その延長線上にあるリサイクル社会、先ほど私、エコロジー・生態系と言いましたが、EcologyのCを、最近、私はDに変えたのです。何になるかというとエドジー・Edology、これは何かというと、江戸の循環社会というものを生態学的にもう一度再評価したらどういうことになるか、別の社会が見えてくる、別の社会が生まれてくる。江戸時代は暗黒の社会だと皆さん思っておられるかも知れませんが、意外や意外、そうではないのです。非常に豊かな循環社会が息づいていた。世界にまれに見るエコ社会だった。そういうものを再評価しようじゃ無いかと思っています。

 

■川を断ち切るダム・砂防堤

 どういうことかというと、ダムの写真、川を断ち切っていますから、砂はダムに溜まります。、本来、土砂・山の砂というのは山から流れ流れて、大きいものは上流、小さいものは中流に、さらに小さいものは下流に流され、三角州を作って干潟を作る。という形で国土保全を川に担わせていたのです。川によって海も山も川も、豊かになっていたのです。それがダムでブチブチ断ち切られてしまうと、ものはダムでストップしてしまいます。そうすると何が起こるか。気温が低い上流部に砂が溜まり有機物が溜まると、分解されず、ヘドロができ、硫化水素が発生する。その結果生物が全部死滅する。そのヘドロをどうするのか、重機を使って掘りあげて、処分場に持って行く、あるいは谷に持って行って埋める。どう思いますか。本来なら栄養豊かで魚や貝を育てるはずのものが、上流に止められることになって、有害物質になって、産業廃棄物になって、さらにエネルギーを費やして処分される。こんな馬鹿な社会がありますか。ということなんです。

 風力発電、メガ風力発電もこうなんです。自分の家で風車をくるくる回しているのは何の問題も無い。

 

■天然林は大幅に減ってきた

  最近、森林が増えたとあちこちで言われるようになりました。確かに森林面積は増えています。廃田や休耕田が森林になっている。けれども、天然林と人工林の割合を見てみると、だいぶん、天然林は減っているし、林野庁はもう切る木が無くて切れなくなっている。天然銘木は北海道と東北の一部にしか無い。これはまた別の問題として重要です。原生的な森林は1960年は38%、2006年は11%、2006年と1960年でこれだけ違うのです。林野庁は金になる木はどんどん切っている、拡大造林は、木は売れなくなりましたから天然銘木しか売れないのです。林野庁の借金を返すために天然木を切って売ろうとするのですが、もう、切る木が無い。これは大規模林道反対の運動で、我々が資料を集めて明らかにしたことです。

 

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日本の天然林を救う全国連絡会議 2008年 より

ツキノワグマの出没

 次に紹介するのがツキノワグマの出没状況の変化です。出現率のグラフを見ていただくと分かるように、その年度の一番多く出没した月は7月~9月に遷移しています。今までは秋の終わり、10月~12月。11月頃しか出てこなかった。それが今では初夏から出没している。初夏から夏の期間というのは、クマにとってあまり食べるものが無いのです。特に6月・7月頃は、植物ではウワミズザクラくらいしか無くて、ほとんど昆虫食です。アリ、ハチ、アブ、社会性昆虫。ところがこういう昆虫類が山にいないのです。いないから山には住めない。どこに出てくるかというと、里周辺に出てくる。里周辺では一年中何かしらの食べ物がある。秋頃まで出てきて、人間に捕られてしまうから、その後はいなくなる。という傾向が、最近、出てきています。

 色々、どんぐりが無いからとか、マスコミが書くんですが、違うんです。どんぐりが無いのも一つの要因ではありますが、ドングリにしか依存できないクマというのは可哀想なんです。前は、秋に、今頃になると、ゴギとかアマゴとか、魚をどんどん食べられた。それが、そういう環境がありませんから、栄養の乏しいドングリ類に頼らざるを得ない。そうなると、たくさん栄養を取るためには広く動き回らなければいけませんから、生息密度も低下して、食糧の得やすい里周辺にシフトしてくる。そこには幸い、やっかいな人間はいませんから、そこを生息域にして世代交代を繰り返していくと、そこが故郷になったクマが増えてくるわけです。だから、通勤電車に乗ってみようかなってクマも出てくる。

 

■メガ風力は自然と地域を壊す

 ざっとこういう背景があって、それでもなおかつ風力発電をやるのかという話です。自然破壊を著しく進めるようなメガ風力というものを、我々が本当に必要としているかどうか、考えることが大事では無いか、それが本日の私のテーマです。

 今日はいくつかの本を紹介します。一つは「八ッ場(やんば)ダムと倉渕ダム」(相川俊英緑風出版 2020年10月刊)、これは民主党政権が脱ダム宣言をして、「コンクリートから人へ」という政策がどうしてダメになっちゃったのか、二つのダムの対応を例にして書いているもので、結構面白かったです。もう一つは「日本の堤防はなぜ決壊してしまうのか」(西島和・現代書館2020年9月刊) 、そしてこれはもう少しグローバルな本で「コンゴ共和国、マルミミゾウとホタルの行き交う森から」(西原智昭・現代書館 2020年3月刊)というタイトルからでは内容が分からないのですが、これも、自然の保全というものが我々にとってどんな課題を持つか、きちんと国際的な立場・現場で報告している本です。こういう本を図書館でリクエストして、広めていっていただきたいと思います。 これで私の話を終わりたいと思います。ありがとうございました。